2010年8月19日木曜日

武田信玄(林)

長男・義信と今川の姫が結婚。
今川との関係を堅くする。

野駈けの途中立ち寄った娘・恵理が気に入った。
即、輿入れ。

間もなく、満を持して東信濃を蹂躙していく晴信。
村上義清は越後を頼り、落ち延びてゆく。
坂城から川中島にある小城を落としてゆく。
それを黙って見ている長尾景虎ではない。
とうとう第一次川中島合戦となる。
…が、小競り合い程度で、会戦というほどにはならない。
諏訪へ戻るといつも出迎えてくれる湖衣姫。
しかし、その姿がない。
労咳にかかっていたのだ。
死期を悟った姫は、息子・勝頼の未来を晴信に託す。

今川領に北条勢が攻めて来た。
今川義元は、尾張の織田信秀と戦っている最中。
武田に北条勢の牽制と助勢を要請。
晴信は、弟・信繁を大将として差し向ける。
…と、見せかけて自分も付いてゆく。
晴信の影武者は、水防工事を視察していた。
駿河に出た武田軍は、見事な采配で北条軍を牽制。
北条氏康は、武田軍に晴信がいるのを確信する。
今川氏の黒衣の軍師・雪斎。
三国の利を唱え、武田・今川・北条を同盟させる。

これで東南の憂いがなくなった。
再度川中島へ。
犀川を挟んで越軍と対峙。
越軍にとって、犀川以北にある旭山城は目の上のタンコブ。
付け城として、そのまた北に葛山城を建てて牽制。
対陣は二百日続き、景色は間もなく冬の装いだった。
晴信は、今川義元に仲裁を求める。
仲裁役は、またあの雪斎だ。
甲・越の陣ともに饗応されていい気分だ。
しかし、手腕は確かだ。
旭山城破棄という条件などで和睦となる。

諏訪にもどった晴信。
しかし、生きる屍となった湖衣姫。
涙ながらに会うことを拒否。
そのまま古府中に戻る晴信。
間もなく姫は亡くなった。
さすがの晴信もクリティカル・ダメージ。

古府中に来客が立て続く。
足利将軍の名代が、駿河を経由してやってきた。
荒っぽい饗応で持てなし、空席である信濃守護を要請。
もちろん名代には、碁石金をたっぷりと袖下へ。
入れ違いにやって来たのは、織田信長の家臣・梁田政綱。
「織田と款を通じたい…」
不適な信長の提案に対して、晴信の答は“奸風発迷”。
意味不明のまま、梁田はその答えを持ち帰る。
晴信は山本勘助に、それを追わせる。

第三次川中島合戦は、越軍から仕掛けてくる。
しかし、晴信は影武者を使って撹乱。
本物は、安曇の小谷城を攻め、魚津方面を脅かす。
結局、今回も大きな会戦は行われず。
冬になれば、越後は雪に閉ざされる。
景虎は歯噛みしながら、退却してゆく。

梁田と行動を共にする勘助。
二重スパイである勘助は、途中、今川義元の元へ。
自分の行動がバレていることに驚く勘助。
どうやら、晴信が故意に情報を漏らしているらしい。
勘助は、今川義元に嫌気がさしていた。
気持ちは、晴信のほうに、すでに傾いていた。

ひょんなことから信長に会うことになった勘助。
梁田政綱が晴信の“奸風発迷”を伝える。
それを見事看破する信長。
勘助は、その信長の様子を、駿府と古府中へ報告。
義元は「うつけ者」と笑い。
晴信は、炯眼して大きく頷いた。

義元はいよいよ西上を決意。
そのころ晴信は薙髪して、名を信玄と改める。
自分自身をスッキリさせることができた。
神仏の加護、民心を集めることも目的だ。
それは、金の質が落ちていたことに由来する。
信玄は、駿河の安倍金山を狙っていた。
そこで、勘助に“奸風発迷”の発動を指示。
勘助の暗躍によって、今川義元は桶狭間で討たれる。

この変動によって、勢力図が大きく書き換えられた。
長尾景虎は、北関東勢の請いを受け、厩橋(前橋)に進出。
一気に北条氏を追いつめにかかる。
しかし、そこは堅牢を誇る小田原城。
北条勢は劣勢だが、ほとんど傷つかずに籠城。
景虎は、とりあえずあきらめる。
その足で、関東管領職を鎌倉で相続。
名を上杉政虎と改める。
関東勢には、越後勢を快く思わない勢力も。
忍城城主・成田長康などはその筆頭だ。
北条征伐に、なかなか足並が揃わない。
そうこうしているうちに、川中島に海津城が出来る。
政虎は、しぶしぶ越後へと戻っていく。

勘助は川中島の“霧”を調べていた。
そして、雲見が出来る人間を捜し出す。
しかし、身を確保するまで気が回らない。
信玄に初めて責められたような気がした勘助。
死を賭す覚悟をする。

もう機は熟しきっていた。
双方とも次で雌雄を決するつもりでいる。
越後勢は、上州から取って返して信濃へ。
それに呼応するように、武田勢は古府中を出発。
途中上田原で、かつての宿老たちを弔う。
なんと敵前法要。
かなりの心理作戦でもある。
味方には戦意高揚を。
敵には焦燥感をあたえる。

越後勢は海津城を圧迫するため、妻女山に陣を布く。
武田本隊は八幡原に陣を布く。
勘助が見つけた、もうひとりの雲見は、濃霧を予言する。
これを受けて軍議を開く。
珍しく、弟・信繁が反対する。
しかし、この機を逃せば、また長いにらみ合いが続く。
信玄は、馬場民部・真田幸隆を主力に、妻女山へ奇襲隊を差し向ける。
だが、そこは政虎。
敵にも味方にも霧は霧。
さっさと妻女山を降りる。

勘助はそれを、いち早く察知した。
味方に知らせようとするが、運悪く敵に見つかる。
足を刺され、血が止まらない。
本隊よりも奇襲隊に知らせようと機転を利かせる。
真田幸隆に危急を報せ、事切れる。

戦端は開かれた。
揉み潰せと越軍。車掛の陣。
ここにきて、武田本隊は裏をかかれたことを知る。
信玄は堅く陣形を保つよう指示。
政虎は防壁のうすい武田の嫡男・義信隊を衝く。
「わざと負けて引きつけろ!」
義信は今まで、負け戦の経験なく育った。
彼は若気も手伝って、まんまと追撃。
すると、いつの間にか越軍に包囲される。
それを助けるため、弟・信繁隊がかけつける。
これにより、信繁は討たれてしまった。

義信隊周辺に穴が開いてしまった。
信玄は、先頭を諏訪氏はじめとする、信濃先方衆を導入。
お諏訪太鼓が鳴り響く。
太鼓の音に鼓舞されたのか、兵士たちを奮戦する。

間もなく、馬場隊を先頭に別働隊が戻って来た。
勘助の報せが功を奏し、予想より早い。
越軍は挟撃される。
政虎は善光寺へと退却を命じる。
そうはさせじと甲軍。鶴翼の陣。
そこを中央突破する、僧形の武人ただ一騎。
完全に形成は逆転。
両軍、被害は甚大だ。
最終的には、甲軍が越軍を北へ追い落とす形。
領地争いとしては、武田方の勝利となった。
*   *   *
新田さんは、信玄と政虎の直接対決はなかったんではないかという見解だ。資料が“甲陽軍鑑”と“妙法寺記”ぐらいしかなかったようだ。
海音寺さんの“天と地と”には山本勘助が登場しないが、この“武田信玄”には宇佐美定行は出てこない。…と、読み比べるのも、オイラとしてはおもしろい。
巻末の川中島の戦いでは、信玄は弟の信繁を失う。あくまで信玄の後ろ盾に徹した信繁。しかし才覚は信玄とほぼ同等だった。その信繁が、今回の戦いを諌めたことは正解だったのだ。
そう考えると、武田信玄の父ちゃん信虎が信繁を跡目にと考えてたことも、あながち間違いじゃなかったのかもしれないなぁ。
ちなみに、「知ってるわい!」と突っ込まれそうだが、真田幸村の本名は“信繁”。昌幸父ちゃんは、この武田信繁にあやかって名付けたという説は有名な話。

2010年8月7日土曜日

武田信玄(風)

謙信と来れば、信玄でしょ!
ってことで、新田次郎の著書に挑戦。
*   *   *
父・信虎は甲斐の暴君。
国は平定されているが、民は苦しんでいた。

ある日、野駈けに出た晴信の前に、百姓が命がけの直訴。
信虎が、妊婦の腹を割いて、胎児を引き出したというのだ。
晴信は、父の暴挙を恥じる。
父は父で、賢明な晴信を邪険にしていた。
晴信は意を決し、今川義元に父を預かってもらうよう手紙を出す。
その伝令は山本勘助という、今川氏の間者だった。
父は父で同じことを考えていた。
義元は晴信の将来性を怖れ、信虎を優先しようとしていた。
しかし、人心は晴信にかたむいている。

そんななか、佐久の海野棟綱を攻めるため従軍。
海野氏は手応えなく退いてゆく。
これを助ける形で、上州の上杉憲政と村上義清が出てくる。
この一連の動きは、諏訪氏を中心とした巧妙なワナだった。
それを察知した甲斐軍は、すごすごと撤退。
途中、重臣である板垣信方や甘利虎泰らと晴信によるクーデター。
そのまま、信虎は今川へ送致される。

家督を奪った晴信は、諏訪氏の討伐に乗り出す。
まずは陽動で敵を疲れさせる。
兵を国境へ出しては退かせる。
それと同時に、諏訪氏の外堀を埋めていく。
高遠氏など、諏訪氏に反感を抱く豪族たちと結託。
松本平の小笠原長時は動かない。
これにより、ほとんど手を下さず諏訪は陥落。

いったん降伏したかに見えた諏訪頼重。
しかし、謀反の疑いありとして、諏訪頼重を切腹させる。
武田信虎がなし得なかった諏訪の攻略。
武田晴信は、二年でそれを成し遂げる。

晴信は祢津氏の姫・里美を迎える。
東信濃は群雄割拠だ。
敵のなか、姫を迎えるのは危険だった。
そこで里美は、その輿入れの供に、真田幸隆を指名する。
東信濃のなかでも知略優れる武将。
幸隆は武田方につくことに。

晴信は、東信濃の抵抗勢力を駆逐していく。
長窪城主・大井貞隆は諏訪頼重と同じ形で、切腹させてしまう。
後味が悪い。

晴信は、時を置かずに諏訪氏の姫・湖衣姫も輿入れさせる。
これにより諏訪地方は安定する。

信虎時代に出奔した宿老たちがいた。
晴信は、これらを“土産付きなら”という条件で、帰参を許していく。
まずは今井兵部。
金山開発に尽力。
つぎに日向三郎四郎。
鉄砲開発に尽力。
鉄砲職人を紀州根来寺の根来衆から引き抜いてきた。
しかし、弾薬は輸入するしか道がない。
そこで山本勘助に輸入路を確保するよう命じる。

続いて志賀城攻め。
ここで晴信は、父を彷彿とさせる暴挙に出る。
抵抗には徹底した弾圧。
敵城に、討ち取った生首三千を掛け並ばせる。
これにより、上州の上杉軍も信濃から追い払う。

晴信は、このところ微熱が続いていた。
それを隠して、湖衣姫や里美のところへ通う。
性欲が激しい。
諏訪から戻った板垣信方が、晴信の具合に気づく。
医者に見せると、労咳の疑いが大きい。
愛妾のところへ通うのを禁じる。
盛んな晴信は聞き入れない。
母の大井氏によって、とうとう志摩の湯で湯治することに。
甲斐あって、見るみる恢復していった。

恢復した晴信は、村上義清の討伐に乗り出す。
板垣信方・甘利虎泰など宿老やたちは猛反対。
真田幸隆も、志賀城攻めの暴挙で、村上勢は窮鼠になると諫言。
晴信はそれらの反対を押し切り、上田原へ出兵。
東信濃の豪族たちは、幸隆が言うように窮鼠と化していた。
死に物狂いで抵抗。
結果、板垣信方・甘利虎康の二大宿老を失ってしまう。
このまま撤退というのでは、負け犬のようでカッコがつかない。
対峙して膠着状態に。
あきらめ切れないが、しばらくして隊伍を整え退却する。

いったん諏訪までもどった晴信。
頭を冷やして、戦後対策を考える。
結論は、中信濃の小笠原長時が動くだろうということだ。
諏訪の西方衆は村上との敗戦後、小笠原に寝返りつつある。
村上は戦の傷が癒えるまでは動かない。
そこで、一気に中信濃を攻めることに。
これに負ければ、武田に未来はない。
今度は自分たちが追いつめられたのだ。

晴信は一計を案じた。
古府中に戻った晴信は、すぐに兵を挙げる。
諏訪までは一日の行軍で到着できる。
が、わざと遅い。
八日もかけた牛歩作戦。
塩尻峠につくと、電光石火の機動作戦に出る。
峠道は四本あり、それぞれに軍をわける。
主力隊が拮抗している間に、他の間道から裏を衝く作戦だ。
かくして、塩尻峠の戦いは始まった。
前半は晴信の思った通りの戦況。
しかし先方隊は、どちらも諏訪衆だ。
晴信は、同族同士の戦いは浮き足立つと考えた。
現実は逆だった。
先陣の戦いは酸鼻は極める。
じりじりと押され始めた甲軍。
晴信は切り札を使う。
里美を主将として、主力隊に押し立てたのだ。
勇敢な里美の鼓舞に、兵たちは応える。
戦況は立ち直った。
日和見の豪族たちが、武田に味方しはじめる。
とうとう小笠原軍は崩壊。
居城である林城から、深志へと落ちていった。

二年が過ぎる。
この間、小笠原は反撃の様子を見せない。
もう小笠原に、反撃の意志はないと見た晴信。
松明を盛んにして、多勢に見せかけ、夜中ずーっと勝どき。
ビビる小笠原は、三々五々逃げ出し、無血で深志城を明け渡す。
小笠原長時は、村上義清を頼って落ち延びていった。

恩情で対する中信濃に対して、東信濃は凄惨な対応。
武田憎しの佐久衆は不穏な動き。
…と、真田幸隆の間者が注進。
村上氏や北信濃勢は、長尾景虎を頼りはじめる。
晴信は、今度こそ禍根を断つため出兵。
村上氏の支城・砥石城を目指す。
神川の断崖絶壁に守られた、難攻不落の城。
軍議では、ほとんどの諸将が砥石城攻略に反対。
囲むだけにして、村上本城・葛尾城を攻めるべきと主張。
しかし、晴信は砥石城を攻める。
二回挑戦して、ほぼ全滅。
さらに鉄砲まで奪われ、散々に負ける。
そこへ村上の本隊。
万事休す。
上田原の戦いでは、何とか引き分けた。
今回は完敗だった。
退却は混乱。
晴信は間一髪のところを、影武者に助けられた。

その砥石城を、真田幸隆が「買う」という。
内部事情に精通している幸隆だからこそ出来ることだった。
砥石城内の佐久衆頭領・矢沢総重は賢い勇将。
今回の砥石崩れは、彼の功績が大きい。
しかし、村上から満足な恩賞は出ない。
佐久衆と村上衆に亀裂が走る。
幸隆はそこに目を付ける。
間者などを使って情報操作。
矢沢総重が、村上を裏切らなければならない状態を作り出す。
とうとう、砥石城は内部崩壊。
不本意な矢沢総重は旅に出る。
家族は幸隆にたくされた。

中信濃では、名族・安曇部氏がしぶとく最後の抵抗をしていた。
これを攻略し、中信濃と東信濃をほぼ征服したことになる。
ここまで、風のごとし十年…。
*   *   *
長尾景虎に対し女好きな晴信。かなりお盛んだったようだが、好いた女にはとことん尽す人でもあった。
諏訪を皮切りに、信濃を攻略していった晴信。戦いの毎日。とくに、東信濃攻略は凄惨を極めた。“上田原の戦い”や“砥石崩れ”など、村上義清との戦いは負けこんだ大きな理由は、志賀城攻めのような凄惨な態度をとったために、ひどく恨まれたことが挙げられる。それでも真田幸隆の活躍(暗躍?)と晴信の執念で、東信を平定していく。
武田信玄といえば、希代の戦上手だけれど、少なくとも東信では当てはまらない。失敗の連続が“武田信玄”を生み出すのか!?