2009年12月23日水曜日

坂の上の雲(四)

 陸軍の戦況は、悲惨なものとなった。
 大連から旅順を目指すのに、六万人!? …の死者を出すことになる。
 あの、さだまさしの歌で有名な映画「二〇三高地」は、旅順の北西、すぐ近く。

 旅順のロシア陸軍と海軍に、いさかいがおきはじめた。
 港でぬくぬくしている海軍。
 それを必死で守っている陸軍。
 陸軍キレる。

 そんなおり、皇帝から「海軍は旅順を出て、ウラジオストックに行け」との勅命。
 ロシア旅順艦隊は意を決っする。
 それを追いかける東郷艦隊。
 黄海海戦。
 東郷艦隊は悲壮なまでの追跡で、これを逃せば、日本は敗れること必至なのだ。
 なぜかといえば、この艦隊とバルチック艦隊が合流すれば、到底日本に勝ち目はないからだ。
 文字通りの、追いつ追われつのデッドヒート。
 まるでカーチェイス。いやいやシップチェイスだ。
 東郷さんは、やはり運がいいらしい。
 数でも物量でも大きさでも、ロシア側のほうがまさっている。
 正面切って戦えば、負けたかもしれない。
 でも、旅順艦隊は、勅命に忠実だった。

 もうひとつ勝因をあげるとすれば、火薬の威力だった。
 下瀬火薬。爆発力と約3000℃の熱風。
 それまでの爆弾は、装甲を破ることに重点を置いていた。
 重艦が多いロシア側の装甲を破るのは至難の業だ。
 この爆弾は、沈没させることはできなくても、甲板上の殺傷能力が高かった。
 結局東郷艦隊は、旅順艦隊をほとんど沈没させられなかったが、この火薬によって、ほぼ全滅させることができたのだった。

 遼陽。太古から満州の要衝の地。
 ロシア側は、ここを得意の要塞化。
 日本陸軍は、すぐにでも攻めたい。
 でも弾がない。
 海軍は砲弾を余るほど積んだ。陸軍はそれを軽視した。
 兵士の勇猛さだけで、カバーできると思った。
 この思想は、日本陸軍がなくなるまで遺伝する。
 ロシアは待ってくれない。
 戦端は開かれた。
 騎兵隊は左翼で盾になれという命令。
 好古は、騎兵隊ってそんな使われ方じゃないじゃん、と思ってる。
 工・砲・馬の混成チームを結成。
 守りじゃなく、奥深く入りこんで攻める。
 大活躍!

 好古隊は、左翼を遊撃している。
 奥・野津の本隊は大苦戦。
 さて右翼。
 ここには黒木軍が入っている。
 北朝鮮から、いち早く入りこんでいった軍団だ。
 陸軍中最強!
 豪雨で荒れ狂う太子河を、夜半、隠密裡に渡河。
 その兵、なんと3万!
 よくも気づかれなかったものだ。
 ロシアは主力をそちらへ向け、壮絶な戦いとなった。
 結局、この黒木軍の猛攻で、敵将クロパトキンは奉天まで撤退を決意。

 外債が集まらない。
 せっかく遼陽会戦に勝ったのに、日本は宣伝が下手だった。
 ロシアに、言いように広報されてしまう。
 そのころ、高橋是清が欧米を奔走している。
 同情するなら金をくれ状態。
 そこを、アメリカのユダヤ系実業家が助けてくれたりした。
 ユダヤ人は、このころからもう、ロシア帝政下ではあるが迫害を受けていた。
 彼は、日本が優勢になれば、帝政が衰弱し、瓦解すると考えた。

 旅順はまだ落ちない。
 現況は、乃木将軍というより参謀の伊地知幸介だ。
 ろくな作戦も立てず、ワンパターンな攻撃。
 そのくせ、プライドが高いとくる。
 文字通り、日本兵の死体の山ができていく。
 様子を見に行った児玉源太郎は呆然としただろう。
 
 奉天まで下がった敵将クロパトキンは逆襲に出る。遼陽を奪い返そうと。
 日本側は、兵も弾もない。
 迎撃か堅守か。児玉源太郎は迷うことは珍しい。
 旅順のこともあり、彼は精彩を欠いている。 
 結局迎撃に出る。沙河会戦だ。
 当時の日本兵は勇猛だった。とくに黒木軍。
 凄惨な戦いのなか、奇蹟的勝利というよりは、ロシアの根負け。

 旅順はまだまだ落ちない。
 海軍は岡目八目。二〇三高地を落としてくれと懇願している。
 しかし、乃木も伊地知も、なぜかこれを無視し続けた。
 児玉は、一大決心を胸に秘め、再度旅順へ。
 そのころ乃木も、ようやく二〇三高地に目を向けようとしていた。
*   *   *
 遼陽攻めは、日本が少数ながらロシア軍を押している。とくに秋山支隊と黒木軍の、機転を効かした戦いが効を奏しているように思える。
 一方、旅順を攻める乃木将軍率いる第三軍の悲劇が語られていくのだけれど、目を覆いたくなるような悲劇と凄惨劇の連続だ。どうしてこうなってしまうのだろう?

2009年12月7日月曜日

坂の上の雲(三)

 ありゃりゃ!? もうTVドラマが始まってしまった。
「まことに小さな国が、開化期を迎えている」
 渡辺謙の、原作“まんま”の語りがいい。
 今、原作を読んでいる自分にとっては、たまらない感覚だ。
 ドラマの出だし。明治の日本が、明るく描かれている。
 司馬史観は賛否両論あるらしいが、このドラマでの明るい日本の描き方。
 はたして、善いのか悪いのか自分には分からない。
 でもタイトル通り、若者が坂を昇っていく様子が、瑞々しく描かれていると思った。
*  *  *
 子規が死んだ。
 このころ高浜虚子や河東碧梧桐など、門人たちが、かわるがわる看病をしていた。
 生来のメモ魔だった子規。
 臨終に際して、子規は死後のことも、細々指示を書き残している。
 真之は、子規の死を、横須賀出張帰りの汽車のなかで知った。
 隣りの乗客の新聞を見て初めて知ったのだ。
 葬式には遅れて駆けつけた。
 棺桶にペコリ。
 怒ったような顔。無言。
 棺桶は去ってゆく。
 その場にひとり立ち尽くす真之。
 怒ったような顔のまま焼香。
 心のなかで「アシもそのうちそっちへ行くきに…」。
 その言葉を念仏のように…。

 三巻にしてひとり、主役がいなくなってしまった。

 そりゃあ、ロシアになめられても仕様がない。
 このころの日本は、工業国でもなんでもない。
 少し前まで、“米”で生計を立てていた。
 実際、国家予算は火の車どころの話じゃなかった。
 なのに軍事費の比率は、年々上がっていって、明治30年頃には50%ぐらいになってたらしい。
 今では考えられない比率だ。
 しかし、当時は幕府が倒れただけで、国民の生活はほとんど代わり映えしていない。
 国民からの非難は、ほとんどなし。サロンぐらい。
 それでもこの“無茶”を断行するのは、至難の業だ。
 海軍は軍艦を建造しまくった。
 それを断行したのが山本権兵衛さん。
 そのパトロンになったのが、西郷隆盛の弟・西郷従道。当時、彼は海軍大臣になっていた。
 このふたりがいなければ、戦艦三笠はできていない。

 さらに偶然は続く。
 日英同盟は、ドイツの外交官の“ウソ”から始まった。
 まさに“ひょうたんから駒”だな。
 その成立に尽力したのが林董(ただす)という人だ。
 もうひとり。恐露家の伊藤博文が、皮肉にもそれを加速させた。

 そんななか、ロシアは日本を軍に招待する。
 日本をビビらせるのが目的だ。
 招待される代表として好古が選ばれる。
 北清事変で各国が軍事介入し、各国が北京の駐屯地にいたころ、好古は人気者だった。
 ここロシアでも、たちまち大人物と仰がれた。
 ロシアでは、それこそ外交は険悪だが、個々人びとは清々しい。特に騎兵は気持ちがよかった。
 豪快な性格が、功を奏し、かなりの情報を得て帰国する。

 真之は、このころ結婚している。
 そして参謀に昇格。
 実質的に日本海軍は、真之の立てた作戦で動くことになる。

 日本とロシアは、朝鮮と満州をボーダーラインに、交渉をはじめる。
 ロシアはかなり強気だ。
「朝鮮の北半分もくれ」
 これで日本は、窮鼠にならざるを得なくなった。

 ロシアとの国交が断絶。
 戦端を開いたのは、日本のほうだった。
 ロシアは、日本から仕掛けてくることはありえないと信じていた。
 砲声が聞こえても、何かの間違いだ、自国の演習だろうと思ったらしい。

 東郷平八郎率いる連合艦隊は、大要塞と化した旅順に迫る。
 ここで、真之が以前に詳しく観察した、米西戦争の閉塞作戦の案が採られる。
 しかし旅順は、映画「レニングラード」に出てくるような、超巨大要塞化していたと思われる。
 容易に近づけず、この作戦で、親友・広瀬武夫が亡くなってしまった。

 そのころの陸軍の展開。
 一方は、北朝鮮側から上陸し、満州を目指す。

 もう一方は、遼東半島の中間を掃討し、小指の先の旅順要塞を孤立させ、北上。
 上記の隊と合流して満州へ。
 好古たちはここに上陸する。
 彼の作り上げた騎兵隊が、本格的に始動。
 しかし火力でおとり苦戦。
 好古は茫洋としている。
 ここで退けば、彼がつくり上げた騎兵隊の価値がなくなる。
 前線まで出て、なんと、ふて寝。

 旅順には、マカロフという将軍がやってくる。
 それまでのロシア軍の士気が一変するほどの人気で、マカロフじいさんと呼ばれている。
 戦術家の教祖みたいな人で、真之も彼の著書を愛読している。
 穴のなかでじっとしていた熊が、活発に動き出した。
 マカロフは機動的に動いた。
 たまたま動きが一定なのに気がついた真之は、航路上に機雷を沈めることを思いつく。
 気休めのような作戦だと思われた。
 世の中なにが起こるかわからない。
 偶然に偶然が重なって、マカロフが乗った旗艦は、その機雷によってあっという間に沈んでしまった。

 その敵将の呪いなのか。
 日本側も同じ手で、旗艦クラスの大鑑を2隻も失う。
 巡回は、2チーム交代で行われていた。
 撃沈されたのは、東郷旗艦“三笠”の組ではなかった。
 東郷は運がいい。
 だから、連合艦隊の大将になった、とも言える。
*  *  *
 三巻にして子規が死に、日露戦争に突入してしまった。
 難しい話の連続で、読むのが遅くなってしまう。

 あちこちで、名著と言われる本書。
 けれど、これからずっと戦争の話が続くと思うと、正直ちとつらい…。
 単純に日本軍の活躍を喜べない。
 そのカゲには、たくさんの“死”があるからだ。
 好古兄さんのように“単純明快”でいることが、軍人には必要なようだ。
 読み進めるうえで、この本の“本質”がなんなのか、見極められれば御の字か…。

2009年11月25日水曜日

坂の上の雲(二)

 日清戦争がはじまった。
 発端をひとことでは言えない。
 日本は欧州列強と渡り合うために、防衛線を朝鮮に欲し、その当時、朝鮮は清の属国だった。
 日本が外交によって、無理矢理、李王朝を味方につけてしまった。
 名目上は「朝鮮を守る」という形。清がそれを許すわけがない。…といった感じ。

 真之。この戦争では、砲艦“筑紫”という小さい船に乗り組む。
 前線の戦略にブーイングしながらも、冷静に戦況を分析した。

 好古。実質、騎兵隊指揮官として、旅順を攻略。
 騎兵の性格もあって、策敵はすばらしい成果をあげる。
 でも当時、騎兵は“無用の長物”扱いに近かったらしい。
 攻略で無理をした。
 騎兵は戦術というより、戦略的にうまく使えば絶大な効果を産むらしい。
 好古はそれを、研究し、実践で成果を上げたかった。が、うまくいかなかったようだ。
 でも、前線の大将として気骨ある立居振舞。リーダーはこうありたいと思わされる。

 子規。どうしても従軍したい。羯南に懇願してとうとう旅順へ。
 しかし、行ったときには戦争は終結。
 帰還の船内で容態が悪くなり、神戸で療養し、なんとか峠を越す。
 その後、静養で松山に。
 このころ夏目漱石が松山中学校に赴任していて、このころの出来事が「坊ちゃん」の着想になった。子規は漱石と仲が良かったらしい。
 そこに真之が見舞いに訪れたりしている。
 小康を得て、松山を後にし近畿地方など歩いた。
 そのときできた俳句に“柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺”がある。

 真之は、表向き留学という形でアメリカへ。
 アメリカはこのころまだまだ後進国で、得るものは少ないと思われていた。
 が、真之がいるときに米西戦争が勃発。
 観戦武官として、キューバ島へ。
 真之は、克明にメモを取り、のちの日露戦争で役に立つことに。

 この時代は、帝国主義全盛時代。
 ヨーロッパを中心に、アジアを食い物にし、極東に至る。
 ドイツとロシアは皇帝同士で密談し、清を食い物にする相談。
 司馬さんが言うには、清を“家畜”にしないで“食肉”とした。
 これに、ただひとり極東進出に反対していた。
 ロシアのウィッテ伯爵という大蔵大臣は、極東に詳しい。
 そんな各国が、清の利権に“食らいつく”なか、北清事変が勃こる。
 内乱に清国政府がそれに乗っかる形。
 その鎮圧に各国が乗り出し、日本も参加。
 どさくさにまぎれて、ロシアは遼東半島を占領してしまう。
 ロシア(少なくとも皇帝ニコライ2世)は、日本をナメきっていた。
*   *   *
 二巻から社会情勢がぐっと多く語られ、正直むずかしい。ただ、この本を読んでいけば、なぜ日本があの太平洋戦争に突入していくのか、分かっていくと思った。
 とにかく、日本は列強に追いつくことに必死だ。そうしないと、清のように“食い物”にされてしまうからだ。自然、軍の増強が加速していった。
 ちょんまげを落として、わずか30〜40年でロシアとわたり合うことが、いかに奇跡だったのかが、語られていく。

2009年11月16日月曜日

坂の上の雲(一)

 いや〜。
 NHKに踊らされていることは分かってる。
 けれど、思わず古本屋でまとめ買いしてしまったわけで…。
 TVドラマを見ればおのずとストーリーも分かる。
 ここで覚え書きするには、ちと内容も濃い。
 なのでとりあえず「読みました」的な程度の覚書と感想を。
*   *   *
 主人公は秋山好古・真之兄弟と正岡子規。三人とも伊予松山の人。
 このころの日本は、勉強すること=お金を稼ぐこと、だった。
 好古は秋山家の長男。今でいう中学生ぐらいの歳に真之が生まれたとき、貧乏で家族が多く「寺に出さねば育てられない」というのを、「お豆腐ほどお金をこさえる」からやめてくれと止めた。
 その言葉通り、好古は早くから家を出て、苦学しながら、最終的には給料をもらいながら勉強できる士官学校へ。体格がよいということもあって騎兵を選択する。

 だから弟の真之は、兄・好古に頭が上がらない。
 真之も兄に負けず劣らずの秀才。そして、すごいガキ大将で伝説になるくらいだった。
 同級生に正岡子規がいた。こちらも秀才だ。
 ふたりとも上京し、大学予備門に入る。一時期は同居していたこともあって、そのころの仲間を子規は“七変人”と言って青春を謳歌した。

 そんなふたりも、人生の岐路に立つ。
 このころの学生は大学予備門を中心に、ある分野で一番になることだけを考えた。
 真之は予備門の勉強で拓ける分野のなかに、一番になれる職業がないことを早いうちから悟り、子規に内緒で兄・好古に相談し、海軍兵学校に入ることを決める。これが後々の名参謀になる道だった。
 子規は哲学の道で一番になりたかった。しかしこちらも一番になれないことを悟り、徐々に文学〜俳句への道へと移っていく。

 このころ、好古はフランスに留学する。
 時代は“ドイツ(プロシャ)式”になる世の中なのに、旧藩主のお目付役として半強制的に、古い考えのフランス軍学を学ぶことになってしまった。…が、騎兵だけはドイツよりフランスのほうが理にかなっていることを知り、陸軍トップの山県有朋に献言する。
*   *   *
 かなり興味深く読んでいるけれど、何せ自分はバカなので、その当時の政治情勢、国際情勢、文化情勢がよく分かっていないで読んでいる。山県有朋とか陸羯南とか、名前は聞いたことはあるけれど…ぐらいの知識しかない。間違って理解しているところもあるかもしれない。これはドラマを見て補えればなぁ、と思っている。

 それにしても、幕末維新この時代は、傑物たちが、雲が湧き立つよう登場する。時代がそうさせるのだろうか? 若者たちはエネルギッシュだ。希望に胸ふくらましながら、世界へと邁進して行く。

2009年11月10日火曜日

宮本武蔵(八)

 高野山には長岡佐渡の姿が。細川家法要の準備のためだ。
 その帰り、真田幸村の子・大助に出迎えられ、閑居している幸村から、若かりしころの武蔵と京都・妙心寺の愚堂禅師の門で一緒だったことなどを聞かされ、武蔵の人物をさらに改める。

 伊織は、茫然自失の体でとぼとぼと、岸和田方面へ。
 行きずりの回船問屋の小林母娘に助けられ、店に置いてもらう。
 慣れない丁稚奉公の最中、細川家家中に小次郎の姿がある。仕返しのお茶の熱湯をぶっかける伊織。怒る小次郎。目には目を、と、熱湯をかけるバツを与えようというときに、長岡佐渡が戻って来る。伊織は法典が原の大徳寺で、その人を知っていた。佐渡に助けられた伊織は、彼の奉公人として小倉まで付いて行くことに。

 武蔵はその後どうしたろうか?
 名古屋近く、岡崎にその姿があるらしい。
 無可先生と称して、手習いなど子どもたちに教えながらある人を待っていた。
 又八もその人を待っている。又八のわだかまりは沢庵によってすでに解けていた。
 二人して待っているのは、武蔵が若年教わっていたという愚堂禅師。
 又八は言うを待たず、武蔵も自分の至らなさを、かなり思い迷っていた。
 半年以上待って、その人は現れる。
 しかし、武蔵には“無一物”のつれない言葉。何も与えず飄然と又八を連れ、西へと旅立ってしまう。
 武蔵は付かず離れず、その人の影を追いかける。野に寝て、風呂にも入らずに。
 ふと雨露をしのぐ山門に書かれた書に、“枝に遊んで葉を摘むな”的なことが書いてあり、武蔵は自分がもつ、つまらないわだかまりを気にしないようになる。
 京都は目前。禅師が妙心寺の奥深く隠れられてしまったら、教えを請うことができない。武蔵は思い切って禅師に追いすがる。
 深く土下座する武蔵に、愚堂禅師は黙然と、棒でその周りをまるく囲む円を描いて立ち去る。
 武蔵はここで“円明流”の悟りを開いたか。
 二にして一。一にして二。己もすべても円の中。…ということか。
 武蔵は月に吠えていた。

 それにしても、あわれなのはお通さん。
 故郷、宮本村近くの播磨灘。かつての乳母の家に身を寄せていた。
 しかし、またしても、お杉婆の策にはめられ曵かれていく途中、奇しくも城太郎が助けに入る。
 城太郎は父・青木端左衛門といっしょに池田家へ帰参が叶い、姫路へ戻ってきていた。
 城太郎は、師・武蔵の出世を阻んだお婆を深く恨んでいた。
 お婆を神社裏の洞穴に押し込めてしまう。
 助かったお通。だがこの人は観音か。烈しく降る雨の中、お婆を助けるために洞穴へ。
 助けられたお婆は、それでもお通を折檻し、とうとうお通は気を失ってしまう。そのとき、洞穴に一書が雨に流され現れる。それは子を想う母の切なる供養の言葉だった。
 誰もが子を想う気持ちは一緒でひとつ。お通にも親があり、その願いは、又八を想う自分の気持ちとおんなじだ。ということをお婆は悟る。

 そして、細川家の取り持ちで、とうとう武蔵と小次郎の決闘が決まる。
 場所は関門海峡沖の船島に決まる。(現・巌流島は彦島とも言い、決闘の史実も諸説あり詳しいことは不明)
 一大決戦ということで、その点に集まるように、縁故の人びともそこを目指す形。
 どちらにも、縁故の人びとと、袂を濡らす女性の見送りが…。

 佐々木巌流小次郎。
 きらびやな出で立ち。鷹を帯び舟上へ。
 宮本武蔵政名。
 逗留先で二筆啓上。舟上、紙縒で襷をつくり、打ち捨ててある櫂を無心に削る。
 遅参すも悠々。

 力と技の剣。
 精神の剣。
 勝負は、その差でしかない。
*   *   *
 あの有名な「小次郎。敗れたり」のセリフは、この原作では「小次郎。負けたりっ」となっていた。小次郎の「遅いぞ。武蔵!」という言葉もない。

 剣豪武蔵も、一個の人間として、道に悩み、恋に焦がれる普通な人として描かれていたと思う。これに対し著しているのが、司馬遼太郎の「真説宮本武蔵」だと解説にあるので、機会があれば司馬版も読んでみたい。
 兵法家として、いろいろな捉え方がある武蔵像だと思うけれど、吉川英治氏は善い方に捉えて書いたようだ。しかし、史実を歪曲するほど脚色していないと思う。
 宝蔵院二代目との仕合いはしていないし、石舟斎とは結局会ってもいない。一乗寺では半数は切り捨てたが、途中で逃げている。
 それにしても、登場人物の奇縁、機縁、薄縁が、付かず離れず、武蔵を巡っている見事さ。
 読んでいてヤキモキもし、助かったと胸を撫で下ろすことの多さ。

 最初に言ったように、やせ細るということはなく、ワクワクしながら読んだ。感謝です。

2009年11月4日水曜日

宮本武蔵(七)

 北条家に招待された武蔵。
 待ち人とがふたりいると連れられてきたのだが、武蔵を試すようにその人物は伏せられていた。
 しかし武蔵は苦笑まじりに看破する。
 ひとりは宗彭沢庵。そしてもうひとりは、なんと柳生宗矩だった。
 宗矩は意地悪くも、武蔵を待ち伏せていた。そうとは知らずの武蔵だったが、気を感じ、部屋へ入る道をわざわざ変えた。その行動を良しとした北条家当主・安房守と柳生宗矩、そして沢庵が、みんなして、将軍家指南役へ推挙し、お通と一家を成せと勧める。

 又八を助けた小次郎。それを逆恨みする浜田某は、小野派一刀流の門弟だった。
 浜田はお杉婆を誘拐し、小次郎をおびき出すが、小次郎はその裏をかく形で師の小野忠明と面接。
 立ち合いの末、負けを認めた忠明は、身を退くことを決め、浜田を破門にする。

 その又八だが朱実に逃げられ、途方に暮れていた。そんな又八に、近所の質屋・奈良井屋大蔵が“いい話”を持ってくる。それはなんと“将軍暗殺”だった。金に目がくらむ又八。ふたつ返事で了解してしまう。…そう、この質屋、城太郎を脅して連れていったあの奈良井屋大蔵だった。

 伊織にせがまれて武蔵は、秩父の三峰権現の神楽舞を見に出かける。
 その太鼓の撥を見て、武蔵はピンとくる。二刀流の極意が。
 そんな背中を暗がりでうかがう者がいた。お甲と宍戸梅軒だ。
 お甲は祇園藤次と、あの和田峠から流れて秩父でお犬茶屋を営んでいた。
 梅軒は野武士家業から足を洗い、三峰神社の寺侍になっていた。
 武蔵には浅からぬ恨みを持つ間柄なので、お甲の茶屋で倒す計画を立てる。
 その横で寝ている丸顔の若い旅人客。
 次の日、武蔵たちは奥之院へ参詣するため山道を歩く。
 そこに待ち伏せていたのは数人の牢人者と梅軒だった。さすがの武蔵も梅軒の強さと周りの多勢に死を覚悟するが、どこからか助太刀が入る。いや助棒か。そしてとうとう梅軒を倒す。鎌と分銅も二刀と同じ。それを見切ったのだ。
 助太刀の人はお甲の店で寝ていた若者。計画に聞き耳を立てていたのだった。武蔵には見覚えがある。あの塩尻峠で、母に導かれ真剣勝負を挑まれた夢想権之助だったのだ。

 仕掛けられたとは言え、神域での刃傷沙汰。役人に自訴することにした武蔵だったが、用意よく役人たちに縛られてしまう。
 どうもその夜、神社では別の事件があったよう。その下手人として武蔵が捕われた形。その事件は、宝蔵から金銀が盗まれるというものだった。
 伊織と権之助は、盗人の手下と間違われ、逃げるしか道がない。
 追っ手は振り切ったが武蔵が心配なふたり。権之助は伊織に武蔵野の草庵に戻るように諭し、いったん引き返す。

 伊織は夜通し逃げたので、途中の石標の草の中で寝てしまう。
 気がつくと、漆桶を担ぐふたりの旅人。何やら怪しい会話。
 そのふたりとは、奈良井の大蔵と、なんと武蔵と数年前に生き別れた城太郎だった。
 何の気なしに行く方向が同じだった伊織は、彼らの行動にますます怪しみを強くする。二手に別れたので城太郎を追うことにした伊織。城太郎も感づいて、もつれ合う。武蔵の名を口にした伊織に、城太郎は驚きのあまり伊織といっしょに木から落ちて気を失うほどだった。

 そこは奇しくも、武蔵野の草庵のすぐ近く、暴風で倒れた草庵に沢庵がひとり待っていた。そこへ現れた虚無僧。なんと城太郎の実父・青木端左衛門。沢庵は話すうちに、彼が宮本村の西軍残党狩りの指揮官だったことに気付き、青木端左はその後自分の息子・城太郎が武蔵の弟子になったことを知ったのだった。沢庵は端左に恩顧の寺へ行くよう諭し、さっそく教えられた道を急ぐ。
 しばらく歩けば、そこに昏倒している若者ふたり。まさかそのひとりが、自分の息子だとは露とも思わない。すぐひっかえして沢庵に知らせ、また旅の人となってしまった。
 奈良井大蔵は西の隠密活動をしていたのだった。彼に傾倒する城太郎に、沢庵は喝を入れ、今の稼業の否を説いて、これも仏のお導きと父の端左を追うよう諭す。

 沢庵は、伊織といっしょに北条家へ。
 北条安房と示し合わせて、江戸城へ詰める。
 ひとつは、秀忠暗殺の阻止を。
 又八を見つけ出した沢庵は、頭を丸めさせ百叩きの計でオッパナしてしまう。
 ひとつは、武蔵の将軍家お抱えの剣術指南役への推挙。
 これは武蔵が、秩父で前者の濡れ衣を着せられていたこともあり、一挙に事を運んだ形。
 しかし、ここにきてお杉婆が、いろいな官庁や屋敷に「武蔵は仇持ち」だと吹聴して歩いたので、武蔵が御前にまかりこしたときには、沙汰止みとなってしまった。
 武蔵はしかし、これ幸いと自分の未熟を想って、野山に深く隠れ、新たなる修行の道を決心し、伊織も残して身を隠してしまう。
 その折、伊織の形見の巾着を預かっていた武蔵は、権之助にそれを返すようにたのむ。北条家でそれを開くと、そこには書き付けが。沢庵は驚く。なんと伊織には生き別れた姉があり、それは今、柳生の庄にいるお通だったのだ。

 そんなこととは露知らず、柳生の庄ではお通が「武蔵お抱え」の文に、居ても立ってもいられず、江戸へと旅立ってしまう。
 夢想権之助と伊織は、すれ違うように柳生の庄に。
 すれ違いの薄縁を嘆いても始まらない。権之助たちは、権之助の母の供養をするために、女人高野といわれる歴史深い金剛山寺へ。
 そこでは奇しくも、あの本阿弥光悦とその母、妙秀尼と出会い、二組ともに武蔵を想い合う。

 さらに勧められて高野山へ旅するふたりは、道すがら仲良くなった組紐商人と肩を並べる。しかし、彼らの真の姿は九度山の牢人たちだった。
 隠密と勘違いされたふたりは逃げ別れに。権之助は多勢に押さえつけられ、伊織は崖に落ちてしまう。
*   *   *
 武蔵はとうとう秩父で、円明(二天一流)の境地を太鼓のバチに見いだした。
 城太郎は生きていた。でも義賊に身をやつしていた。大蔵に半ば脅された形だったが、沢庵によって救われてよかったなぁ。城太郎といい、又八といい、伊織とお通の仲といい、沢庵さんはいつもオイシイところを持っていくよなぁ。
 さあ、ここ最終章にきて、真田幸村の影がチラホラ。武蔵とどう絡むのか!

2009年10月27日火曜日

宮本武蔵(六)

 いったんは江戸に入った武蔵だったが、石母田外記にもらった金塊が気になり、それを返すべく後を追う形で少し北、法典が原というところで、伊織との運命的な出会い。
 父を亡くしたばかりの伊織は気丈だった。何を感じたものか、武蔵は伊織を弟子にする。
 その場を修行の場とし、利根の大水が出るというまわりの百姓たちに小バカにされながら、荒地を開墾しはじめるふたり。剣を鍬に持ち替えての修行だ。なかなかうまくいかないがここで得た教訓は「自然に逆らわない」こと。晴耕雨読の毎日。
 そんなある日、土匪(山賊)によって近くの村が荒らされ、“七人の侍”よろしく、武蔵が先頭に立って村人たちを導き、兵法によって山賊たちを追い払う。それを細川家の老臣・長岡佐渡が偶然見ていた。
 それからはまわりの村人たちも、武蔵たちの開墾を手伝いうようになり、敬うようになった。

 一年近くが過ぎ、法典が原は見違えるばかりの青田になっていた。
 長岡佐渡は、細川家の若殿・忠利に推挙すべく法典が原へ。しかし入れ替わるように、武蔵たちは江戸に起っていた。
 江戸は大坂の暗雲から、往来を厳しく戒めはじめていた。そんななか武蔵たちは、偶然にも柳生家の高弟・木村助九郎と出会う。
 宿をとった武蔵。隣りの部屋とイザコザになり、ひとりが乗り込んで凄むのだが、武蔵はソバを食べながら、何か黒いものを箸でつまんでは外に抛り出している。よく見るとそれは、ソバにたかるたくさんのハエだった…、というあの有名な逸話がここで紹介されている。
 そのあとさっそく、柳生家に手紙を書き、伊織に届けるように言う。

 宿の向かいに「本阿弥流御たましい研所」の看板。光悦の弟子の店だと、ピンときた武蔵は、さっそく刀を研ぎに訪れる。
 かたな談義に華が咲き、主人が研ぎ上がるまでの代刀を見ると、その一本に魅せられてしまう。主人は、武蔵が手すさびに作る観音像と交換なら譲ってもいいと申し出る。

 伊織は迷っていた。教えられて辿りついた屋敷は、今で言う勤務先のようなもので、住居は遠く離れた村だと教えられ、伊織は意地でもそこへ行くことに。
 近くまできた伊織だが、なかなかたどりつかない。キツネにばかされたと思い込んだ矢先、きれいな女性を発見。キツネだと思い込む。なんとそれはお通。何の因果か、お通は柳生家に助けられ、又八の手を脱し、石舟斎との縁で江戸柳生家の厄介になっていた。
 そんなお通を追いかけてくる若者がいる。柳生兵庫。頭首・柳生宗矩の甥で、剣の腕は宗矩以上かもしれない。
 石舟斎が危篤と聞き、ふたりして大和へ向かう途上、伊織と出会うが、まさかその手に持つ手紙に、武蔵の消息が書いてあるとは露とも思わないお通であった。

 宿をひきはらって、向かいの刀研師の二階に住み込んだ武蔵。それをどこから嗅ぎ付けたか、半瓦の舎弟たちが佐々木小次郎とお杉婆に居場所を告げ、お婆はいきり立ち、小次郎も助太刀に立つ。
 あと一歩のところで横槍が入る。小次郎を仇と狙った小幡の高弟・北条新蔵だ。
 小次郎と切り合い、何とか一命を取り留めた新蔵。刀研師の家で長く養生していたが、快方に向かい武蔵が家まで送る。途中、またしても六方者たちが立ちはだかる。
 舎弟たちは仲間を斬られて憤慨していたが、武蔵は無視して逃げてしまい、その行動を卑怯者と、江戸中に高札が掲げられてしまう。

 小次郎も細川家の一家臣の食客として養われていた。大望を内に秘め、立身を夢見ながらも、安く自分を売り込まずにいたが、名君・細川忠利に仕える気になりつつあった。やっとのことで拝謁を賜るも、腕見の立ち会いで残忍な一面を見せてしまう。
 それを取り繕うために、相手の見舞いに出向く小次郎だった。
 そんなある日、又八は西瓜売りに身をやつし、いつの間にか朱実と暮らしていた。
 女郎屋から朱実につきまとっていた男に、つきまとわれていた又八を助けたのは、なんと小次郎だった。

 さて武蔵たち。高札の噂を嫌って武蔵野まで。そこで一庵を結ぶとはいかないまでも、伊織と暮らしはじめる。
 そこへどうつきとめたのか、北条新蔵がやってきて「ぜひ会わせたいひとがいる」と自宅へ招く。
*   *   *
 城太郎をほっぽって、伊織を弟子にするんかいっ!と、武蔵に突っ込みたくなった。はぐれた城太郎はどうなったの? どう思っているのか。なんか武蔵が薄情に感じるのだけとれど、どこかに生きている確信みたいなものがあるのだろうか。
 武蔵と小次郎。江戸でも細川家でも切っても切れないくされ縁だ。忠利は武蔵のほうが気になるみたい。小次郎はその傍若無人ぶりがあらわになってきた。
 柳生兵庫はお通が気になってるみたいだ。お通は相変わらず。武蔵は言わずもがな。どうなんの!?

2009年10月20日火曜日

宮本武蔵(五)

 下り松の戦いで、九死に一生を得た武蔵。
 ボロボロの体を、叡山の一寺に寄せていたが、例の子ども殺害で物言いが付き、明朝には寺を出て行くことに。その夜、お杉婆に命を狙われるが、どうしても憎めない武蔵は、一緒に瀬田方面へ下ることにする。牛を借りて、その背にお婆を乗せて歩いていたが、お婆は逃げてしまう。
 それを黙認するように言われた女がいた。武蔵はそれにはふれず、お通への手紙をその女に託す。「こんどは自分が待っている」と。生きている喜びと、決戦の前に出会ったときのお通の印象が、武蔵をそうさせたのだった。

 その女の家でひとやすみしていると、奥にいたのは、なんと又八。朱実とかけおちの途中、朱実がその家で、具合悪いのを装って逃げてしまっていた。そんな又八と武蔵は旧来の友。すぐに打ち解け、諭して、一緒に江戸へ出ようと誘い合う。しかし武蔵は、又八の母・お杉婆とすぐ前で別れたので、探してきっと得心させて来いといって、ここでは一旦別れることに。
 そこで、さらに一眠りする武蔵。いつからか、外では職人たちが、下り松の武蔵の活躍話で盛り上がっている。そこへ反論する若者の声。佐々木小次郎だ。例の子ども殺害を引き合いに出して、卑怯だとののしる。しかし奥にいたのは武蔵。バツの悪い小次郎に武蔵は、仲介の件など、わざわざ慇懃に礼を言い、小次郎の言をしかと覚えておくと、行く末を暗示させる言葉の数々。

 武蔵とお通と城太郎。折よく瀬田で落ち合い、あとは又八。と、武蔵は待っている。
 その又八。なんと佐々木小次郎と出会い、つかまっていた。小次郎は、武蔵のひどさを口酸っぱく説いて、又八に「江戸へなどやめておけ」と引き止めるが、又八は武蔵を信じてそれを振り払う。

 武蔵たちは先に立つことに。お通の乗った牛を、武蔵が引いて行く。やっと仲睦まじく歩く姿だった。それを追ってきた又八が目撃。嫉妬メラメラ。
 木曽馬籠の女男滝での事件がキッカケで、武蔵とお通の歯車はまたくるいはじめる。
 牛を城太郎に預けて、距離をとりながらの旅。そこへ現れた又八。牛もろともお通をさらってしまう。泣きながら追いかける城太郎。

 武蔵は遠くで待っていたが、旅人たちの噂でお通が何者かに誘拐されたことを知る。探して駒ヶ岳の麓まで。牛を発見。そこは母ひとり息子の若者ひとりの百姓家。早合点した武蔵は奇しくも手痛い反撃に遭う。その家の息子・権之助は棒の達人だった。誤解とわかるとお通たちをいっしょに探してくれたのだけれど見つからない。それでもなんとか城太郎の足取りはつかむ。
 武蔵は、この棒術使いとの奇縁を喜んだが、今度仕合ったら殺してしまうかもしれぬと、思いきわめ、そこを去り、城太郎を追って奈良井の大蔵宅へ。

 大蔵は百草(薬草)を商う豪商。親切が取り柄と聞いた城太郎は、その噂を頼って行ったのだった。
 一足違いで旅立った城太郎たちを追いかける武蔵。塩尻峠で先回りして待つことにしたのだが、いっこうに出会わない。出くわしたのはなんと、木曽の権之助母子だった。
 木曽武士の末裔の名折れだと、老母が叱咤激励して、改めて仕合いを申し込みにきたのだ。そのひたむきさに真剣勝負を受けて立つ武蔵。
 母の加勢もあって、勝負は引き分け。のちに権之助は夢想流を起ち上げたのだという。

 そんな武蔵にひとりのファンが。彼は仙台伊達藩の石母田外記。諏訪湖畔で出会い仲良くなる。京からの帰り途中、武蔵を慕って偶然会えれば、と望んでいたという。その気があれば、仙台にと誘われたりする。

 外記と別れた武蔵は、大蔵たちの足取りを追って和田峠を夜越え。途中の茶屋で、風呂敷から知らない小判が出てきてびっくりの武蔵。外記が有用な牢人を抱えようと、布石として偲ばせた黄金だった。茶屋で出会った山賊まがいがそれを狙っていたが、武蔵はそれに気づいている。しかしその中には、なんとあのお甲と蓄電した吉岡門弟の祇園藤次がいた。
 お甲との再会を素直に喜び、酒を酌み交わす武蔵。しかしお甲と藤次は寝静まった武蔵を、小屋もろとも崖下に落としてしまう。仲間と武蔵をさがす藤次たち。しかし武蔵は見つからない。

 その数日後、城太郎は奈良井大蔵と八王子に出ていた。そこで大蔵の真の正体を知ってしまう城太郎。それを逆手に取った大蔵は、城太郎に自分の養子にならないかと迫られていた。

 いつしか一年と半年が過ぎて…。

 朱実は流されるままに女郎屋の亭主に拾われ、葭原(吉原)の女郎に身をやつしていたが、小次郎の姿におののき、またも姿をくらましてしまう。
 その小次郎も江戸に出ていた。何の奇縁か、お杉婆と浅草寺で出会う。婆は六方者(渡世人)の親分・片瓦弥次兵衛の厄介になっていた。
 小次郎は小幡流軍学の門弟たちとイザコザが絶えない。
*   *   *
 お通と武蔵。やっと打ち解け合ったと思ったのも束の間。男と女にはよくあるすれ違い。お通の悲願が叶っただけに、なんとも悲恋だとしか言いようがない。
 それにしてもすれ違いと奇縁の連続。中山道を越える道すがらの中でも、なんという出会いと別れだろうか。武蔵を中心とした人びとの、運命の流転に目を見張る思い。

2009年10月11日日曜日

宮本武蔵(四)

 沢庵に助けられ、お通は辛くもお杉婆の魔手から逃れ得る。
 お杉は息子・又八にお通を討たせようとしていたが失敗する。

 一方、武蔵。奇縁に恵まれた武蔵は、本阿弥光悦の宅に逗留していた。
 ある日光悦と遊郭に出かけることに。そこを待ち伏せていた吉岡の門弟が、武蔵と伝七郎との果たし合いを申込む。即応する武蔵。決闘は今夜だという。しかし、武蔵はこれから遊里へ行くのだが…。
 光悦は途中、大町人の灰屋招由と一緒になり扇屋という遊郭へ。慣れない遊びに、ぎこちなく酒を飲む武蔵だったが、折りをみて中座、約束の場所へと向かう。外は季節外れの春の雪。

 吉岡伝七郎は待っている。雪の中で。イライラ。そこへ登場する武蔵。伝七郎はイライラが裏目に出、精細さを欠いてしまった。構えが成っていないのだった。それでも互角。そこに高弟の助太刀が…。振り向き、振り向き、斬っていた。この助太刀が入らなければ互角のままだったかもしれない。

 何食わぬ顔で戻った武蔵だが、外は吉岡の門弟たちが意地になって町を取り囲む形。思い詰める武蔵に、扇屋の看板、かの吉野太夫が、琵琶を比喩にしてたしなめる。
 琵琶の体には、横木が一本這わしてあるだけだ。きっちり固定されていても、ゆるくてもいけない。その微妙な“遊び”が大事なのではないかと…。張りつめてばかりいると弦は切れてしまう。今の武蔵には余裕がないと諭す。

 武蔵は考えを直して、吉野太夫のところに数日ゆっくりと過ごす。そんなところへ、どこで聞きつけたか、城太郎がやってくる。城太郎は武蔵に、烏丸家にで臥せっているお通へ会ってくれるよう、涙ながらに説得する。それをシオにここから出ることにする武蔵。だが、街のまわりはまだ吉岡の者たちがたむろしている。堂々と表門から出る武蔵は当然、取り囲まれる形。しかし、佐々木小次郎が仲裁に入り、武士として堂々と決闘するようすすめ、場所は一乗寺下り松と決まる。

 どうしてもお通に会いきれない武蔵。烏丸家に城太郎を送り、自分は去ってしまう。
 一乗寺への向かう道すがら、三道ある一つも選ばず、鵯越よろしく敵の背後を突こうと考える。
 ここで武蔵は、とうとうお通と再会を果たす。しばし言葉もないふたり。どちらともなく気持ちをぶつけ合う。死をも覚悟するお通に生きろと諭す武蔵だが、お通の覚悟は武蔵以上に澄み切っていた。
 もとより武蔵も死を覚悟していた。お通を振り切り、八大神社に出る。自分の弱さに、辛くも神恃みを避けた武蔵は、澄み切った精神で合掌し、七十人のなかへ身を躍らせていく。

 鬼畜と化したかのような武蔵。まずはと、吉岡の血統である大将首は、年端も行かない子ども。しかし、それを血祭りに上げてしまう。
 武蔵は兵法に長けていた。地の利を使い。細い道で、大勢の敵に囲まれないように工夫する。一の太刀から二の太刀に移る速度や、返しの刀が異常に速い。なまじ師がいないので、独特な刀法を編み出していた。気がつくと、両手に太刀を持って戦っている。かの二刀流は、武蔵が無意識のうちに工夫していた、武蔵でしかありえない偶然の刀法だった。
*   *   *
 ここでもまた、武蔵は達人に出会う。吉野太夫だ。人間には“遊び”が必要だと諭される。吉野にしろ、お通にしろ、そしてある意味お杉婆も。女の聡明な強さを感じさせられる。
 武蔵には天性で、暴勇な剣の強さと、敵を察知する野生に似た敏感さを持っていて、沢庵の助けで書を読み、兵法も身につけた。伝七郎との決闘では、のちの小次郎との戦いを、想起させる幾つかがあるようだ。
 一乗寺の戦いでは相当な自身になったと思うのだが、年端も行かない子どもを手にかけたことは、どんなものか悩むところ。

2009年10月5日月曜日

宮本武蔵(三)

 武蔵はケガをしている。釘を踏み抜いて。
 梅軒を訪ねると折り悪く留守で、伊勢神宮の禰宜・荒木田氏の仕事をしているという。そこには、偶然にもお通と城太郎が身を寄せている。
 そうとは露とも知らない武蔵。梅軒は荒木田氏のもとにはおらず、足のけがはいよいよひどくなる一方。旅籠で悶々とする武蔵は、けがによっての自身の未熟さをののしり、宿の外に見える絶壁の鷲ヶ岳を石舟斎と見立てる。けがをした足で山に挑む武蔵。石舟斎を越えたという気持ちがそうさせるのだった。

 京都には当面の敵・吉岡清十郎がいて、果し状も送ってある。返答の日時と場所も記したので遅参するわけにはいかない。その約束は又八への約束ともリンクしている。
 京都へ向かう武蔵は、偶然に梅軒と出会う。梅軒の家に泊まり、鎖鎌の極意や型などを教えてもらう武蔵。話は生い立ち話。話に花が咲く。しかし、なんと梅軒は、関ヶ原近くで武蔵と又八とで返り討ちにした野武士の頭領の弟・辻風黄平だった。寝込みを襲われそうになった武蔵だが、間一髪で身を隠し、逆に寝首をかけるぞという脅し工作をして梅軒宅を去る。これも一種の兵法。

 武蔵と吉岡清十郎の果たし合いは、あっけなく決着がついてしまう。
 高札で約された場所で果たされず、吉岡門下や佐々木小次郎にも立ち会われず、いろいろな人びとの思惑が交錯する外で、吉岡清十郎の付き人だけが、立ち合いの承認ということになってしまったが…。
 その言葉によれば木刀での勝負で、清十郎は肩を打ち砕かれた。これによって彼は、片腕をなくすこととなってしまう。
 武蔵は勝ったものの、心から喜べない。吉岡清十郎は弱かった。そんな帰り道、枯れ野のなかで不思議な老母と息子に出会い、何とはなく魅かれ、時をともにする。息子はあの本阿弥光悦。武蔵はここで剣道と茶道の不思議な共通点を発見したりする。

 又八はとうとう本物小次郎と鉢合わせ、化けの皮をはがされ、結局頼るのは母のお杉婆。母を慕って、清水三年坂へと向かう。

 吉岡では、弟の伝七郎が兄の復讐のため、遊蕩先から舞い戻り、躍起になって武蔵を探していた。

 そんな武蔵を、追いかけるお通や又八やお杉婆。お通はせっかくのチャンスも、嫉妬に焦がれて逃してしまう。婆はそんなお通をうまく言いくるめて、何を企むのか!?
*   *   *
 これまで読んでみると、武蔵は確かに強いのだけれど、本当に自分より強い者には実際にぶつかっていない気がする。宗彭沢庵、宝蔵院日観、柳生石舟斎、そして本阿弥光悦のような人たちと交わるにつけ、自分の未熟さを感じずにいられない。

2009年9月27日日曜日

宮本武蔵(二)

 武蔵が次に向かったのは柳生の庄。“柳生新陰流”開祖・柳生宗厳は隠居して石舟斎と号し、五男の宗矩が徳川幕府に召し抱えられていた。
 なんとか石舟斎に近づこうと考えていると、ひょんなことから石舟斎が切った白芍薬の切り口を見、その人とは知らず、その尋常ならざる切り口が誰であるか知りたいと小柳生城に手紙を城太郎に託し、その手紙の内容が目にとまり、柳生四高弟に会うこととなる。
 それでも足りない武蔵は、城太郎の不始末にかこつけて、石舟斎に近づこうとするが、そこにはなんとお通がいた。
 お通は武蔵を追って旅をし、笛で生計を立てていた。その笛が縁で石舟斎の身の回りの世話などをしていたのだった。武蔵はお通に後ろめたい気持ちでいた。剣の道には女は邪魔だと、置いて逃げるようにしてきたお通だが、会いたい気持ちもあったのだ。
 結局、信念が揺らぐのを恐れて、武蔵はその場から城太郎もおいて逃げてしまった。

 一方、又八。お甲たちとの泥沼な生活を脱して武蔵と対等になるよう身を立てようと、石工をしていたが鬱勃とした日々を送っていた。そんなある日、一人の牢人(浪人)者と出会う。不幸な事件で牢人は死んでしまい、又八はその荷物を縁者に届けようと考える。手がかりは中にあった中条流の免許皆伝の目録。そこには名前を“佐々木小次郎”と書いてある。
 そのうち探すのもめんどうになった又八は、佐々木小次郎の名をかたって、仕官しようとたくらむが、逆にだまされてしまい、逃げていたところを偶然にもお杉婆たちと出くわす。親不孝を反省した又八は、ともに武蔵とお通の仇討ちについてゆくことに。

 吉岡道場の現当主・清十郎たちの浪費で傾いた財政を立て直すため、方々へ声をかけて帰ってきたのは祇園藤次。あまりかんばしくない結果を引っさげて帰る途中、小猿を連れた前髪を残した美少年と喧嘩沙汰となり、背に大きな長刀“物干竿”で髷を落とされてしまう。
 それを知った仲間たちが人数にモノを言わして追い打ちするが、逆に切り返される。追い打ちをかける美少年は清十郎と出会い、清十郎はその容姿から以前に伊藤一刀斎から聞かされていた“岸柳佐々木小次郎”その人だとわかる。兄弟子・伊藤一刀斎と懇意であると知ると、小次郎も一気に打ち解けるのだった。
 又八が出会ったのは小次郎の兄弟子で、印可目録は子細あって兄弟子が、小次郎へ渡す旅の途中だったのだ。
 さて、そのころ武蔵は、宍戸梅軒と仕合うべく伊勢の途路である。
*   *   *
 剣の道という硬派に生きる武蔵も、お通への揺らぐ思いをうちに秘めていた。そんな気持ちでは到底石舟斎と仕合うつもりにもなれなかったのか。
 又八・お杉婆・お甲・朱実・吉岡清十郎はじめ吉岡一門。そして佐々木小次郎。この人々が不思議な糸で繋がりつつある。

2009年9月22日火曜日

宮本武蔵(一)

 …というわけで、誰もが知ってる作品なので今更解説もないが、自分の覚書として書き残すことも、このブログの主旨のひとつなので、どうかその辺はよろしくひとつ…。

 ときは関ヶ原戦後、武蔵と又八は九死に一生を得て、とある民家に転がり込む。そこは、若い後家・お甲とその娘・朱美が住んでいた。傷を癒し、故郷へ帰ろうかとも思う矢先、野武士に襲われる。お甲の死んだ亭主はこいつらの頭領だったが、野武士の間にも下克上があるのか殺されてしまっていた。裕福な暮らしに慣れていたお甲は、娘に関ヶ原の死体を追い剥ぎさせていたのだ。ためこんだ品物が狙われ、それを逆に武蔵たちが返り討ちにしてしまう。次の日武蔵が起きると母娘と又八の姿がなくなっていた。

 武蔵は一年ぶりで宮本村に帰る。村には姉がいるし、又八の許嫁・お通と母・お杉がいて、又八の安否を知らせるためでもあった。しかしお杉婆は、又八をそそのかして関ヶ原へ連れて行った武蔵を、深く恨んでいた。そこへ姫路の西軍残党狩りが入り、武蔵はランボーのように山に潜り抗う。そこへ現れたのが宗彭沢庵だ。
 沢庵に生け捕られた武蔵だったが、又八に裏切られた失意のお通によって助けられる。お通は一連の事件で、強く武蔵に惹かれるようになっていた。

 沢庵によって姫路城の蔵にこもり、兵書などを読み漁ること三年。剣に生きることを決める。京都を中心に武者修行をすることさらに二年。後の因縁となる吉岡の門を叩く。しかし騙し討ちをかけられ、若頭領である清十郎と果たし合うことを得ずに、そこを後にする。

 宿泊していた木賃宿で、ひょんな因縁から城太郎という少年を弟子として、連れて行くことに。

 次に向かうは、奈良宝蔵院。そこの高弟を打ち負かした武蔵だが、二代目胤舜は留守だという、老僧は胤舜の師匠であった。この人に精神的敗北を感じ、試合には勝ったのに、しっくりいかない武蔵…。
*   *   *
 沢庵によって精神的に開眼した武蔵。それまで蛮勇で、剣も強かったみたいだ。ちょっとやそっとでは負けない。宝蔵院の老僧によって、さらに精神的に成長する兆しを見せるのか!?

2009年9月17日木曜日

宮本武蔵(〇)

 先日、NHKの「プロフェッショナル」という番組に井上雄彦さんが取材されていた。残念ながら最後の30分ぐらいしか見ることができなかったが、「バガボンド」が終盤を迎えているらしかった。TVでみる彼は初めてだったけれど、昔、スラムダンクがヒットしている頃見た彼の印象とは大分に違い、頬が痩けて憔悴しきっているように見えた。(なんか雰囲気がノリタカに似てるな!?)
 途中からペンを筆にして描いているということだし、作品に対する意気込みというか、挑戦というかが感じられる。
 オイラは、そんな「バガボンド」をラーメン屋に置いてあるのを数冊読んだぐらいで、そのあと読んでいない。

 …だから、というわけではないけれど、その数日前、古本屋で程度のいい宮本武蔵の吉川文庫を見つけた。安く売っていたので、全巻買いそろえてしまった。一巻を開くと「はしがき」とある。今まで吉川文庫を何冊か読んできて、はじめての前置きだったので少々驚いた。そこには、作者自身、読者の激賞の声がたくさん寄せられうれしい反面、作品が独り歩きし戸惑っている…、というより恐怖している、ということ。読んだ人、ひとりひとりの“武蔵像”を描いていただければ、といことが書かれてあった。
 自分で自分を恐怖させた作品。書き終えたとき、かなり痩せていたということが、最終巻の裏表紙に書かれている。
 そして、今もなお、読んだ多くの人びとに、多大な影響をおよぼし続ける吉川版“宮本武蔵”。

 何がみんなをそこまで惹きつけるのか、しっかり読み進めていきたいと思います。
 メタボだし少しは減量になるだろうか!?
 ……バカなこと言ってスイマセンm(_ _)m

2009年9月16日水曜日

赤ひげ診療譚

 長野のおじいさん(故人)の家は、いま、おばさんが住んでいる。お盆のお墓参りに本棚を漁っていると、山本周五郎がたくさんあり、そのななかから拝借したのがこの本。

 保本登は、長崎へ蘭学を三年間遊学し、“わけあって”小石川養生所に赴任させられる。その“わけあり”のこともあって、最初は赤ひげたちと衝突するが、ある事件をきっかけに心を氷解していく。

 江戸の底辺の人びとの暮らしを細かく活写しており、登の視点がそのまま自分の視点となって、文章がとてもよく“見える”。
 今放映されている医療ドラマや、新しい医療小説も、元を辿ればこの本に通じるのだろうか。倫理観は今も昔も変わってはいない。言うまでもなく医療小説の古典であろう。
 新出去定(赤ひげ)が「…誰が悪いのでもない、人間は美しくもあるが、汚く卑しくもある」「…貧困と無知を改善しない限り病気はなくならないだろう」「…おれたちは患者の生命力の手助けをするだけだ」という言葉などに、深い葛藤とそれまでの苦闘がうかがいしれる。

「赤ひげ」といえば、黒澤明監督の映画を思い浮かべるだろうけれど、恥ずかしいことに、まだ映画を観たことがない。
 これは観なければいかん、と、猛省させられた。

2009年9月9日水曜日

その男(三)

 虎之助は、養父・茂兵衛の仇の情報を得ようと、自然、伊庭八郎や見廻組のいる幕府方に近づきつつあった。もう一歩で、その泥沼に身を沈めるところを、もうひとりの養父・山口金五郎が呼び戻すかのように臨終の手紙が届く。叔父・金五郎を弔うため、またも後ろ髪をひかれつつ京を後にする虎之助。

 一方、伊庭八郎。幕府について蛤御門の戦から鳥羽・伏見へ。そして箱根で激戦を繰り広げ片腕を切り落とす。その後、江戸に潜伏。榎本武揚を追って船に乗りこむも、嵐に遭い難破。横浜にてまたも潜伏。機をみて函館へ。到着した頃には、病もひどくなり、彼の命は風前の灯だ。五稜郭降伏の五日前に、流れ弾に当たり討死した。
 虎之助があのまま京に残っていれば、八郎と運命をともにしただろう。八郎の足跡を聞いたとき、虎之助は男泣きに泣いたという。

 虎之助は江戸へ戻ると、金五郎の妻・お浜を義母として山口家を継ぐ。そんなある日、昔住んでいた礼子との思い出の家で、非道な官軍に手込めにされそうな女たち救う。そのなかにいた年増女のお歌は、昔馴染みの妓楼の女だった。これもなにかの縁だろうか、虎之助はお歌を妻に迎える。
 幕府の家来ではあるので、息をひそめ暮らす日々が続くが、東京新政府が「幕府の“罪”をゆるす」という勅令を公布し、大手を振って往来を歩けるようになる。
 虎之助は何を思ったか、横浜で偶然見かけた洋風床屋を見てピンと来た。ここに住み込んで修業し“開化散髪処”という床屋を開業した。そこに現れたのが偶然にも、桐野利秋…出世し、洋装軍服も華やかな中村半次郎そのひとだった。
 奇妙な巡り合わせからまた親交がはじまり、桐野利秋は虎之助の床屋へ通うようになった。

 ときは明治も数年たち、政府は外交に注力しはじめたころ。その留守をあずかるのは西郷隆盛。幕府を倒すためいったんは協力しあった諸藩たが、西郷隆盛の朝鮮への外交政策に端を発し、岩倉具視などとウマが合わず、失脚させられ政治から身を引き鹿児島に隠棲することに。薩摩士族は彼を慕って、ほとんどが彼についてゆく。もちろん桐野利秋もだ。

 桐野が去った床屋に、桐野となじみの薩摩人がやってくる。その男との会話のなかで、恩師・池本茂兵衛を殺害したのは桐野だったことが分かる。真実を確かめるため、虎之助は単身鹿児島へ。
…真実であった。果たし合いを申し込む虎之助。しかし桐野は「江戸人は昔のこつ、根に持つんか!」と一喝。虎之助はもう桐野を仇として見ることはできなかった。それほどに男惚れしていたのだ。
 東京には帰らず桐野とともに、田畑を拓く手伝いをする虎之助。そんなある日、西郷隆盛がやってくる。彼とはこれが初対面だったが、たちまちその男振りと愛嬌に惚れ込んでしまう。
 西郷は帰郷して、私学校を設立したり、若者を育てることに力を注いでいた。そんな彼と東京にいる大久保利通。旧知の仲だった彼らは、ますます埋まらない溝ができてゆく。
 奇しくも、西郷が育てた若者たちが煽動するかたちで、西南の役が勃発。そのころにはすでに西郷隆盛は、諦めの境地に達していたようだ。「…これも天でごわす」。
 これが日本人同士の最後の戦いとなった。これを虎之助は見届けるのだった。
*   *   *
 それにしても、明治維新前後の時代とはまさに“激動”の時代だったのだなぁと、感じずにはいられない。とくに、維新後の西南戦争のクダリがどのような流れで起こったのか、本書を読んではじめてわかった。
 その激動の時代を杉虎之助は、“負け組”の側に立って生き抜いた。父たち、妻たち、親友たちを看とり、昭和十三年までの大往生だったという。激動を生き抜いた力強い男の物語だ。

2009年9月1日火曜日

その男(二)

 寺田屋騒動に絡みながらも、礼子を妻として京を後にした虎之助夫婦。江戸へもどった虎之助に、昔助けてやった女の情夫・中村半次郎が貸した金とともに現れる。虎之助は半次郎の快活な性格に魅かれる。池本茂兵衛の言いつけ守り、礼子との生活にひたりきる虎之助。フラグが起ってしまうぐらいの仲の良さだったが、やはりこの甘い生活は長くは続かなかった。
 ここらへんは分かっていても、女房を持つ身としては涙なしには読めず。

 その事実を、師匠・池本茂兵衛に直に告げるため再び京へ。
 師匠とのつなぎを待ちながらも、ひょんなことから半次郎を見かけ、その動向を不審に思った虎之助は、薩摩藩の動向を探りはじめる。出入りしている道具屋があやしい。この道具屋が新撰組に捕らえられ、かの池田屋事件につながっていくのだが…。
 そんななか半次郎が襲われる。たまたま虎之助はそれを目撃し、半次郎の鮮やかな手並みに、我を忘れ思わず声をかけてしまう。半次郎は薩摩の隠密であった。ひょんなことから半次郎の仲間に妻・礼子の仇を見いだした虎之助は、これを周到に呼び出し仇を討つ。が、その時とほぼ同じくして、奇しくも、育ての父・池本茂兵衛の死が近づいていた。
 師匠の死に水は取れたものの、どん底へたたき落とされる虎之助。茂兵衛は一刀のもとに切り上げられていた。「先生ほどの人が…」。このことであった。憤る虎之助は、新たな仇を探しはじめる。しかし、すぐに江戸の叔父・山口金五郎が半身不随の病にかかったという手紙が届く。先生の仇を一刻も早く探したいが、叔父も自分にとって“もうひとりの育ての親”だ。先生の骨も江戸の礼子のたもとに葬ってやろうと考え、後ろ髪をひかれつつも江戸へ戻る。
 この間に京では、池田屋事件から禁門の変へ激動を迎える。
 金五郎は復調、虎之助は京へ舞い戻る。伊庭八郎の紹介で京都見廻組に協力を仰ぎながらも、師匠の仇の情報もままならず、空しく三年の月日が流れ去る。

2009年8月30日日曜日

イベント:高遠ブックフェスティバル

 選挙投票日のお祭りのなか、早々に投票を済ましてその足で高遠まで。霧の巻くような天気が心配だったけれども、茅野から高遠に上ると、急に視界が晴れ、逆に蒸し暑いぐらい。
 川岸の駐車場に着くとけっこう混んでいる。県外ナンバーもけっこう見える。
 橋を渡って向こう岸へ。町唯一のメインストリートには、本棚が置いてあったり、図書館前のメイン会場では、ちょっとした催し物も開催していて、子どもたちが古本などを売っていた。

 このイベントは“ブックツーリズム”という、イギリスのヘイ・オン・ワイという町が行ったイベントがもとになっていて、日本では初めて試みだそうだ。一回目ということでまだまだ盛り上がりには欠けるようだけれど、地元の人たちによる野菜などの直売もあったりで、手作り感満載だ。
 さらなる盛り上がりに期待したいですな。

2009年8月26日水曜日

薮の中

 小栗旬主役でこの9月に上映される「TAJOMARU」。その原作が芥川龍之介の「薮の中」だということで、青空文庫のテキストで、恥ずかしながら今ごろ読んでみる。短いので速攻で読めた。

 事件の当事者たちの証言がすべて食い違っていて、ちょっとしたミステリーとしても楽しめる。

 これをベースにした作品は、黒澤監督の映画「羅生門」はじめたくさんあって、ネガティブ路線なんだけれど、「TAJOMARU」の映画予告を観ると、かなりポジティブに仕上がっているように見受けられるが、観てないからそうなるかどうか分からないんだけど…。

「薮の中」「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」など、これらの芥川作品に共通するものは、人間のエゴだよね。だが本作以外は、教科書にも載るような作品だ。本作は一番おとなな作品だったというわけだね。ムフフ。

2009年8月24日月曜日

その男(一)

 池波正太郎が著した幕末もの。無名の剣客、杉虎之助の物語。
 虎之助は幼少の頃から病弱だった。継母にいじめられ、十三のとき、我が身の不幸を呪って身投げしたところを、池本茂兵衛に助けられ、その縁から剣の道を志し茂兵衛についてゆく。
 六年の月日が過ぎ、虎之助は見違えるほどたくましい男に生まれ変わっていた。
 ひょんなことから叔父を助け消息が知れるが、茂兵衛の頼みで、礼子というわけありの女を、彦根城下まで送り届けることに。その道中、薩摩なまりの侍と乱闘になるも、そんじょそこらの剣客に負ける虎之助ではなかった。
 そんなこんなで、師匠の秘密が気になりだした虎之助だが、ここで師匠に絶縁されてしまう。
 言いつけを守り江戸で暮らす虎之助。剣客、伊庭八郎と出会い親交を深める。労咳を患う彼から、友好の印として“心形刀流”を授かる。
 ある日、世話人から礼子を見かけたという話を聞く。彼女が旅装で品川宿を後にしたというのだ。その先に恩師、池本茂兵衛の影を見た虎之助は礼子を追う。出発の日、またも例の薩摩武士をみかけた虎之助は、いそぎ東海道を京へ。御油宿の宿屋ではち合わせた三組。またもヒゲ面の武士をやりすごした虎之助だったが、京へのぼっても、礼子どころか茂兵衛にも会えない虎之助は、悶々と京で過ごす。
 天下はますますもって幕末。京にも不穏な空気が漂いはじめ、とうとう師匠の秘密を知った虎之助。池本茂兵衛は幕府の隠密だった。恩師とともに働きたいと思う虎之助だが、茂兵衛は「礼子を探し連れ出して、江戸で幸せに暮らせ」という。

 ひょろひょろだった虎之助が、見違えるように逞しくなって帰ってくるクダリが痛快。そのときの叔父さんとのやりとりがまた楽しい。伊庭八郎や、後半登場する中村半次郎との親交も気になるぜ。

2009年8月20日木曜日

ローマ人の物語(5)

 ハンニバルは陽動の意味でローマ首都に迫ったことがあったということだけれど、そのときがローマを見た最初で最後だったということだ。
 ハンニバルの誤算は、敗者をも取り込んでゆくローマの共存共栄システムだった。ハンニバルはローマ同盟の切り崩しに失敗した。まわりの同盟に加盟している都市や国家はほとんど、ハンニバルの誠意ある呼びかけにも振り向きはしなかった。

 さすがに元老院も独善的なスキピオ(大スキピオ)を呼び戻す。会議の結果、アフリカではなくシチリアに派遣することが決まる。しかし、そこは申し合わせたように、シチリアからカルタゴ領土へ侵入する糸口を、合理的につかませる用意周到な配置だった。再三の勧告を無視したカルタゴへの報復として、スキピオは満を持してカルタゴに上陸。本国に泣きつかれたハンニバルは、イタリアを去り本国へもどることとなった。

 このときハンニバルの想いはどんなものだったろうか。“万感の想い”とはよく言うが、その時の彼には、いろいろな気持ちがこみ上げてきたことだろう。旗下の兵士たち全員を船に乗せることはできない。追いすがる部下たちを、弓で追い落としたということだ。非情なエピソードだが、残された兵士たちはイタリアで奴隷にされることを恐れもしたことだろうけれど、ハンニバルを慕ってもいたのだと思う。ローマはそこまで非情な国ではないことを一番分かっていたのは、他でもないハンニバルだったかもしれないのだ。

 とうとう師弟は相対する。“ザマの戦い”だ。
 ここでハンニバルは大敗を喫してしまう。どうもカンネ会戦時とは、ローマ側とカルタゴ側の騎兵の量が逆転していたようだ。それにスキピオ側がハンニバルの象隊を陽動によって、使い物にならなくしてしまった。象を受け流す抜け道をつくったのだ。あとスキピオはこの会戦で、スペイン剣“グラディウス”を、この戦いで大量投入していることも興味深い。グラディウスは今までにない両刃の剣だ。これらによって、カンネとは逆転した戦況で、ローマ軍がカルタゴ軍を包囲し殲滅。決着が着く。
 それでもローマはカルタゴを征服せず、共存共栄を図ろうとした。

 ローマはその後も、周辺諸国から攻められ、それを平らげては、共存共栄を図ろうとするが、悲しき帝国主義へ進んでいく。それでもスキピオ存命中は、彼の考え方や威光もあって“ゆるい帝国主義”だった。それを厳しくしてしまったのは、彼をはじめとするローマ人が尊敬してやまないギリシア人だった。
 この後ローマは、マケドニア、シリア、ギリシア諸国と滅ぼしてゆく。だがこれらは、ギリシアをはじめ、同盟国を守るための戦いだった。スキピオはカトーに蹴落とされ政界を去り、ハンニバルも亡命先でローマに売り渡される前に毒をあおって死ぬ。

 ローマをこれほどまでに強大にしてしまったのは、皮肉にもハンニバルだった。軍略をハンニバルに学んだローマは、公武合体ではないけれど、政治的にも軍事的にも比肩する国がなくなってしまった。文明的に先進国だったギリシアも、その驕りからローマに鉄槌を喰らわされる。
 カルタゴを滅ぼすのに指揮をとった、スキピオ・アフリカヌスの養孫、スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)は、滅びてゆくカルタゴを見ながら、「ローマも同じ道を歩み、滅び去る日が来る」と嘆き涙したという。
 しかし、古代ローマが滅びるにはまだまだ永い時間がかかるのだ。

2009年8月13日木曜日

ローマ人の物語(4)

 父ハミルカルからスペイン領を継いだハンニバルは、打倒ローマだけを胸に生きたと言っても過言ではないだろう。第二次ポエニ戦役の戦端を開かせるために、彼は用意周到に動き、開戦がなると、第一次ポエニ戦役を反面教師として、ローマ本土に攻め込むことを考え実行する。そこで前人未到のピレネー・アルプス越えをやってのける。
 アルプス越えでの犠牲も、越えてからのローマ領内以北のガリア民族を味方に引き入れることも計算ずく。ローマとの会戦も、当時誰も思いもつかない奇略と、破竹の勢いでローマ領内を蹂躙してゆく。とくに現代でもヨーロッパの兵学校では必修である“カンネ会戦”のハンニバルの戦略は、見事としか言いようがない。

 希代の戦略家ハンニバルは、この間に隻眼となっている。日本でも伊達政宗や山本勘助など、隻眼の武将は有名だ。かっこいいイメージがある。ヨーロッパでは、紀元前にこんな兵法者がいたとは驚きだ。“ハンニバル”と名前だけ聞くと、「羊たちの沈黙」の続編である「ハンニバル」を思い出す。観てはいないが、これであの難解な映画の一部でも氷解できるだろうか?

 ローマを倒すだけに人生を捧げたと言ってよいハンニバル。付き従う兵士たちにとって孤高の存在だった。それでいて彼から離れていく味方はほとんどいなかったらしい。

 対するローマはしかし、のど元に刃を突きつけていた。スペイン戦線は善戦していたのだ。しかしハンニバルが自国を席巻し、イタリアの長靴の足の甲あたり、カラーブリア地方に落ち着いたころ、スペイン戦線も大打撃を被る。指揮する執政官も戦死し、当惑するローマに彗星のごとく現れた若者がいた。スキピオだ。
 スキピオは戦死した執政官の息子で、名門コルネリウス家の出だ。しかし、執政官として軍を指揮するには若すぎる。だが彼にはカリスマ的魅力があったらしく、絶大な市民から支持を受け、父の仇討ちの意味もこめられた元老院の決定で、異例の若き執政官が誕生する。

 皮肉なことに、このスキピオこそがハンニバルに最も影響され、その戦略を学んだ弟子的な存在となっていた。スペインでの彼の功績は目覚ましく、敵の裏の裏をかく作戦で、主要都市を陥落させていき、カルタゴをスペイン領内から駆逐することに成功。なんとハンニバルと同じく、カルタゴ本国へ討って出る。

2009年7月31日金曜日

ローマ人の物語(3)

 シチリア—すぐに思い浮かぶのは、クリストファー・ランバート主演の“シシリアン”に代表されるようなイタリアンマフィアの島。
 紀元前、ローマとカルタゴはここを取り合った。第一次ポエニ戦役だ。ほとんど海に出たことのない国ローマが、海運国カルタゴにほぼ初戦から勝ちまくる。船を見よう見まねでコピーして、ローマ式に実用的に改造したのだった。少し昔の日本が、自動車で世界を席巻したことと似ているなぁ。
 そんななか、後の大敵となるハンニバルの父、ハミルカルがローマの前に立ちはだかる。しかし若輩で、国の信頼が薄かった彼は、結局、敗戦国の調整役として講和の場に臨むこととなった。ハミルカルはその後メキメキと頭角を現し、当時のスペインを開拓し力を蓄えていく。そしてその“力”をハンニバルが受け継ぐこととなる。

 ローマが強かったのは、とにかくシステムにある。敵をも取り込もうとする姿勢。前にも書いたが、その前向きな考え方は驚愕に値すし、今の日本や世界が手本とすることが盛りだくさんだ。第一次ポエニ戦役後。ローマは、アドリア海の海賊と北辺のガリア民族を駆逐し、街道を敷設して後顧の憂いを断つ。しかしこの時点でカルタゴと再び戦はなければいけない理由はないのだが。

2009年7月26日日曜日

映画:サマーウォーズ

 上田市民だけの映画披露試写会があり、それに夫婦で応募したのだが、カミサンだけ当選。それをふんだっくって20日に上田市文化会館へ観に行く。
 最初に、細田監督と主演の声を担当した神木竜之介君とヒロイン役の桜庭ななみさんが舞台挨拶に出てきたのだけれど、遠くて顔がよくわからん。監督の奥さんが上田の方だということで、結婚報告で訪れた上田のロケーションから着想が広がったのだそうだ。桜庭さんは「駅に降り立つと映画と同じ風景が広がっていて感動しました」と言っていたのだけれど、映画を見て納得することになる。そう。全編、舞台が上田市そのものなのだ。そしてそこに登場する大家族“陣内家”は、真田家をモチーフにしているのだ。

 映画の内容は、ぜひ観て確かめてもらうとして、さすが「時かけ」の細田監督だ!としか言いようがないテンポの良さ。
 久しぶりにアニメーション映画をスクリーンで鑑賞したが、やっぱ迫力もあって、思わず手に汗握ってしまった。
 ラストは思わずケンジくんといっしょに叫んでしまいそうだった。

 まあ、ともあれ、映画のロケや、有名アーティストのジャケット撮影やPVで有名になりつつある上田市。さらにこのサマーウォーズがご当地映画となることは間違いないっす!

 それでは皆さん、この映画を…「よろしくお願いしまぁ〜す!」

2009年7月19日日曜日

ローマ人の物語(2)

 ローマがギリシアに使節団を派遣したのは、ギリシアがペルシアを退け、名実ともに絶頂期に入ったころだった。このころのギリシアは“アテネ”と“スパルタ”の力が拮抗していた時代で、なぜかローマは、このふたつのポリスを模範とはしなかった。
 そんなこんなで、三者鼎立だった王制から、共和制に移行し貴族vs平民となってしまったローマは、あっけなくケルト族に負けてしまう。ローマ初めての敗北と言っていいだろう。屈辱的な数ヶ月を経てケルトと話し合ったのだけれど、ほぼ無条件降伏のようなものだった。それからなんとか元の領地と、精神的な回復がなるのは、なんと半世紀以上もかかる。
 ケルトとの敗北で、どん底に突き落とされたローマは、内輪もめしてる場合ではないと、画期的な法律をつくる。かなり元老院が平民に開かれた。そしてあの「ローマ街道」が造られていくのもこのころなのだった。

 それにしてもローマの人々の考え方は、紀元前という大昔なのに、現代より開かれた考え方に驚かされる。すぐお隣りのアテネでさえ、かなり閉鎖的だったのに、それに影響されることもなく、開かれた国づくりを進めていく。

 そして、とうとう小さい都市国家だったローマがイタリア半島全土を統一するときが来る。建国から500年近い時が流れていた。

2009年7月11日土曜日

ローマ人の物語(1)

 ドラクエ9が今日発売だ。
 ある意味このゲームがオイラをファンタジーの世界に誘ってくれた、と言っても過言ではない。ヨーロッパ世界の香り漂う勇者の物語。古典のロード・オブ・ザ・リングや、新興のハリーポッターも、今となってはドラクエのおかげで楽しめるようなものだ。
 そして、今回、だからこそ今こそ読もうと手に取ったのが、この「ローマ人の物語」だ。
 文庫で34巻。著者が文庫化するうえで、細分化したのには意味がある。でも財力のないオイラにとっては、少々イタい(;_;)

 1巻・2巻はローマの生い立ちが中心だ。「へぇ〜」ということのトリビアの連続で、知らなかったことがてんこもりだ。
 まず、初期のローマは王制ではあったが、世襲制ではなかったこと。東洋と西洋の歴史的根本の違いって、この王様の選び方だと思う。王制が7代続いたのちには、なんと共和制になってしまった。あと元老院は、本当にジイサンたちの集まりだったってのもびっくりだ。
 後半はローマとギリシアの比較がされている。もちろん時代的に先進国はギリシアで、ローマはそれを手本にしたところが多かっようだけど、決定的に違ったのは“民族の同化”だった。ギリシアは閉鎖的だったのに対して、ローマは戦争で敗った国を吸収合併していった。それも負けた人びとを奴隷にせず、市民として参政権まで施した。

 こうやって、この本を読み進めて行くと、ドラクエの世界も違った眼で見えてくるかもしれない。

2009年7月6日月曜日

雷電本紀

 昨今、地元の英雄といえば“真田幸村”と言われて久しい。でも、もうひとり忘れちゃいませんか!! …というわけではないけれど、たまたま雷電に関する歴史小説があると知って、いろいろ本屋を探したけれど、見つからず結局ネットで注文。
 著者は飯嶋和一さん。その筋では超評価の高い歴史小説家だ。

 話は主に、鍵屋助五郎の視点で進む。
 浅間山が大噴火を起こした天明の大飢饉のころ。彼は海野宿の白鳥神社の奉納相撲で、江戸から招待されたプロの力士をわずか十七歳で投げ飛ばし、歴史の舞台に登場する。彼の強さは民衆に支持され、おすもうさんに赤ん坊を抱いてもらうと、災厄祓いになると言われるようになったのは、雷電がするようになってからのようだ。
 そのころの力士は藩のおかかえで、えばり散らしていたし、八百長相撲が横行していた。そんななか雷電は雲州出雲藩おかかえではあったけれど、実力で勝つ民衆の希望の光となる。
 巡業先の貧しい村へ出かけ、四股を踏み荒稽古を披露し、それが民衆に活力を呼び覚まさせ、病魔払いとなった。うまい例えではないけれど、今で言えばナカタやイチローと言ったところだろうか。
 二十一年間・約三百戦中、わずか十敗。古今無双といわれたからこそ、挑む力士たちも光りを放った。
 しかし時が過ぎ、気がつけば切磋琢磨した仲間たちは去り、修羅を燃やした宿敵たちいなくなっていた。晩年、彼らを祀るために鋳造された鐘楼や鐘が、鍵屋助五郎の死を招く。
 その鐘のコピーが、小諸市の養蓮寺に残っているらしい。

 名もないような村へ出向き、四股を踏み厄を祓い、引退後も地方巡業を続け、最期まで民衆のヒーローであり続けた雷電。ここにも地元の英雄がひとりいる。

2009年6月19日金曜日

私本太平記(八)

 楠木勢は官軍の盾となって壮絶な最期をとげる。
 最期の最期まで、正成の慈愛に満ちた行動は胸に迫る。
 結局、彼が後醍醐に諫奏した通り、宮方は比叡山に落ちのびることになる。今ごろ逃げても状態が好転するわけもなく、ずるずると戦争は長引くばかり。足利方も焦った。名目上は和睦という形で後醍醐天皇の還幸を促す。
  後醍醐天皇はいったんは降ったが、やっぱりこの人は、大人しくなるような人じゃない。どうしても自分で国の経営をしたのかったのだろうね。奈良吉野に逃げ てしまった。ここに至って南朝を開いてしまったわけだ。ここからだ。南北朝時代ってのが始まるのは。この朝廷分裂、50年も続いたらしい。なんか煮え切ら ない混沌とした時代。一方の室町幕府が、善政したかといえば、そうでもない。けっこう好き勝手やってたようでひどいものだ。
 尊氏と後醍醐天皇。ふたりが組んでいれば、もしかするといい国づくりが出来ていたのかもしれない。それをさせようとしていたのは、亡き楠木正成だった。
 どうも作者は、正成の死後にあまり興味がなかったのか、ここから尊氏が死ぬまでを、この巻で終わらせてしまっている。例の皇国史観やらがジャマをしているのか、はたまた、この時代のあまりな惨状に嫌気が差したのか…。
  とにかく、この後の尊氏の周辺は、目を覆うばかりの惨劇が続く。この50年で戦国時代を凌ぐ下克上の嵐! カオスですよカオス! 裏切り裏切られ、昨日の 友は今日の敵。今日の敵は明日の友…。とどのつまりは、弟の直義をさえ手にかけてしまった…。どうしちゃったのさ!尊氏さん! 権力とはそこまで人を狂わす のか!?
 北条高時、大塔ノ宮、楠木正成、新田義貞、後醍醐天皇、北畠顕家、高ノ師直、そして弟の直義。彼らが尊氏に憑いたとしか思えない。そんな尊氏にも最後が。危篤の床でうめいた「河内殿!」。三途の手前で正成と語らったのか…。
 思えば北条の世を憂いて起った尊氏だったが、権力の魔物に取り憑かれ、最期はグダグダ。悲しき英雄譚であった。

2009年6月11日木曜日

私本太平記(七)

 楠木正成は、天皇に直々の諫奏を行う。「足利を敵にまわさず、和睦するが上策」と。しかし聞き入れられず、田舎へ謹慎させられる。そこへ尊氏第一の忠臣・一色右馬介がやってくる。彼の目的は正成との共同戦線だった。尊氏と正成は一度だけ対面しているが、そこで物別れに終わっていた。尊氏は正成を高く評価していて、なんとか仲間に引き入れたかったようだが、その愚直なまでの真っすぐさとすきのない返答にあきらめざるを得ない。正成の人物像は、平民や、昔はともかく今の世に評価が高いだろう。領民を思い、後醍醐天皇に対する忠義を初志貫徹した。この“初一念”、真田太平記を思い出した。犬伏の陣で、兄は徳川方に、父と弟は豊臣方に物別れするクダリだ。この時代でも寝返りは当たり前。“利”を求めず、正成も“義”に生きていた。
 一方尊氏。九州に逃げ延びたが、そこも窮地に追い込まれている形勢だ。しかし、太宰府は敵に落とされ、自軍の10倍の敵をまわしながら、電光石火で戦いを挑み奇跡的に勝つ。実は、ここでも尊氏のしたたかな政略が盛り込まれていた。尊氏は人心をつかむのがうまかった。九州滞在も一ヶ月足らず。後顧の憂いを断ちつつ、すかさず東上を開始する。
 有頂天ではなかったであろう新田義貞。しかし、勾当の内待という美女にうつつをぬかしていた、なんて話が有名のようだが、決してそうではなかったようだ。尊氏と比べて政治家ではなかったということ。戦略に長けた義貞。しかし尊氏は政治家だったのだ。民衆の心をつかみ、戦いの流れを優位に持っていった。
 はたして、決戦は兵庫沖に開戦する。

2009年6月1日月曜日

私本太平記(六)

 後醍醐天皇の治世で平安を取り戻したかに見えた建武年間。しかし大塔ノ宮は「次代の北条」と足利を擬視していた。いよいよい大塔ノ宮方と足利の対立が激 化するなか、尊氏の謀略によって、あっけなく宮は足利尊氏の弟・直義のいる鎌倉に流されてしまう。そんななか、北条残党が各地で蜂起。特に諏訪氏が中心と なって北条高時の遺児、時行を奉じた信濃勢が鎌倉に攻め込み、直義は窮地に追い込まれる。そして鎌倉混乱のなか、直義は大塔ノ宮を謀殺してしまう。弟の窮 地を助けるべく、朝廷の命を無視して尊氏が起ち、なんなく北条残党は掃討してしまうのだが…。
 ここらへんで、足利兄弟の確執が描かれている。弟・直義は直謀的なのに対して、尊氏はあくまで遠謀をめぐらし、ここでも大望に対する考え方の違いで大げんかしているが、実際はどんなものだったのだろうか?
 とにかく、弟が勝手にいろいろやってくれたおかげで、足利勢は晴れて(?)朝敵となってしまうが、ここでも尊氏の遠謀で、足利の敵が朝廷ではなく、新田義貞になるように矛先を変えるよう画策し、義貞はまんまとそれに乗る状態で、皇軍の総大将となって鎌倉に迫る。
  それにしても尊氏って、いつの間にこんなに遠謀家になったのだろうか? 若いころから何を考えているのか、いま考えてみれば不気味だ。余談だが足利市には “足利学校”なるものがあった。尊氏がそこで学んだとは史実にはないけれど、もしかすると、ここで儒教の学んだかも知れんね。
 弟の罪も被って蟄 居していた尊氏だが、新田勢の猛攻に矛盾を感じつつも起ち、新田勢を挟撃し勝利すると、勢いに乗って上洛。一瞬にして京を落とす。宮方は比叡山に逃げる が、檄を飛ばしていた奥州軍が北畠顕家を大将として、疾風のごとく駆けつけ、またも形勢は逆転。尊氏は大義名分を求めて持明院党(北朝)の院宣を求めたが 行方知れず、足利勢は糧道を確保できず、新田・北畠・楠木ほか連合軍に京を追い出され、播磨(現兵庫県)、果ては筑紫(現福岡県)へと空しく落ちていく。 しかし尊氏だけは、そんな風でもない。
 とにかくこの当時、足利、新田を中心とする宮方の形勢が、目まぐるしく逆転していく。それに足利側が西国へ落ちていくクダリは、不勉強で今までとんと知らなかった。
 さぁ、ここから捲土重来。尊氏たちは、どうやって京へ戻り得るのか…。

2009年5月31日日曜日

天地人:「真田幸村参上!」

 とうとう幸村が登場。タイトルも満を持して“参上!”だなんて…。
 原作で、真田に対する扱いがひどいことは知っていたので覚悟はしていたが、映像になるとさすがにへこんだ。とくに昌幸の扱いがひどく、とてもあの徳川軍を撃退した知謀の持ち主には見えなかった(俳優さんには罪はないけど…)。当の幸村役の城田優くんだが、「真田太平記」の草刈さんを彷彿とさせるイケメンくんだ。遠目には絵になるし、粗削りな感じが若い幸村に合ってなくもない。百歩譲ってヨシとしよう(激甘評価(^^;)。
 天地人、脚本・スタッフ・キャストも若々しく、若者に受ける大河ドラマを目指しているようだ。今が一番クダけた作りだと思うが、これから話は重厚さを増していく。脚本もキャストも重厚感を出していってもらいたいものだ。

2009年5月24日日曜日

私本太平記(五)

 足利二万騎はまんまと近江をぬけ、宮方と合流し六波羅探題を落としてしまう。
 これによって千早の囲みが解け、金剛山でわすがに生き延びた楠木勢は故郷に凱旋する。
 高氏と正成。性格や生い立ちの違いはともあれ、戦の指揮がとても似ているように描かれている。血気にはやる舎弟・郎党をなだめ、冷静沈着にことを進め、時には楽観視までする。後に雌雄を決するであろうふたりだが、正成に何が足りなくて、何が高氏に天佑をもたらすのか。
 場所は変わって上野国では、足利に呼応して新田義貞が蜂起。雪だるまのように味方を集めながら、鎌倉へと攻め上がる。
 足利・新田の造反で、北条九代の鎌倉幕府はもろくも崩れ去り、後醍醐天皇は満を持して凱旋する。そんななか、論功行賞が行われ、“高氏”は“尊氏”となる。再び天皇中心の新体制で政治が行われることになったが、結局、公家と武士は相容れないのか…。そして、“楮弊”という紙幣を、中国の見よう見まねで導入し、浅はかな政治体制が、早くも時代に不穏な影を落とし始める。

2009年5月15日金曜日

私本太平記(四)

 楠木正成は、大塔ノ宮と呼応しながら、千早・金剛山で篭城。地方の南朝方(後醍醐)を味方する諸将の挙兵を待っている形。
 そんななか後醍醐天皇本人や郎党たちは、思いのほかあっさり隠岐ノ島を脱出。伯耆国(現鳥取県)の大山に篭城。この脱出を手助けした裏方には、岩松党という海賊が深く関わっているのだけれど、なんとこの岩松党、もとをたどれば足利、新田氏と同族なのだ。要は同じ源氏なのだけれど…とても怪しい。
 それにしても、この本の登場人物で好感を持てるのは、唯一、楠木正成だ。
 皇国史観だのなんだのと、この南北朝時代はいろいろとややこしいらしく、北方謙三氏なども自著が煮え切らなかったと言っているほどで、どっちが正しいとか言えないのかもしれないのだけれど、オイラとしては、正成は侠気があって、かっこいい男だなと思った。NHK大河ドラマでは武田鉄矢が演じたらしいけれど、もっとカッコいいイメージだなぁ。
 そんなこんななか、高氏は仮病を使って、鎌倉で情勢をじっと見すましていたのだけれど、とうとう出陣命令が下り、足利勢は、あの“鑁阿寺ノ置文”を胸に秘め西上を開始。高氏の遠謀は家中をも知れずに、佐々木道誉を捉える。
 高氏はシタタカなのか馬鹿なのか、大器量のように描かれているけれど、藤夜叉の扱いがひどすぎる。さすがの藤夜叉もキレるのか…。

2009年5月9日土曜日

史跡:須々岐山神社

 散歩がてら、前々から気になっていたところに行ってみる。
 上田大橋を塩田方面に行くと、岩鼻から南側に、異常に長い石段が見え、赤い幟旗が等 間隔に立てられているのが見える。カミサンと「なんじゃありゃ」ということになったのが、昨年秋のころ。須々岐神社という場所だとは知らなかったのだけれ ど、一昨年の大河ドラマ「風林火山」で注目されて、参道が整備されたそうだ。階段は約600段で、かなりハードな上り坂だった。一緒についてきた姪っ子の あーちゃんと、カミサンとで登りはじめたのだけれど、キツいのなんのって…。あーちゃんを、途中でダッコしながら登ったので、キツさは倍増した。それでも 頂上につくと、さすがに見晴らしがいい。
 ここは上田原の合戦で、武田信玄と戦った村上義清が陣を張って対峙したところで、上田が一望できる絶景だった。

2009年4月30日木曜日

疾風六文銭 真田三代と信州上田

 昨今、戦国武将ファンの女の子が急増していて、“歴女”なんて言われているらしい。今日の朝の“めざましテレビ”でも取り上げられていてビックリだ。オイラは男だけど、その動きに完全に乗っかってるカタチになってしまっている(^ ^;
 自分は長野県上田市の出身なのだけれど、一昨年、上田市・小県郡を中心に新聞に折り込まれて配られているミニコミ紙、週刊上田から「疾風六文銭 真田三代と信州上田が発刊された。このガイド本。オイラも少し制作のお手伝いをさせてもらった。
 地元だし、今まで興味はあった真田氏だけれど、なかなか史実を知ることができなかった。しかし、この本にたずさわったおかげで、自分のなかで歴史への好奇心の扉が開かれた、と言っても過言ではないだろう。
 見やすくて内容が充実しているし、最新の歴史研究に基づいているので、コアな真田氏ファンにも興味深い内容となっているようだ。
 気になる人は“週刊上田”に連絡してみては!?

2009年4月29日水曜日

私本太平記(三)

 後醍醐天皇ごむほん!
 天皇が謀反を起こすというのも変な話だよねぇ、と作者も言っているが、その乱もあっという間に、鎌倉方に掃討されてしまい、後醍醐天皇は隠岐の島流しに。楠木正成は急造の赤坂城に立て篭る。無謀とも思える篭城も正成の謀計で、後醍醐天皇の息、大塔ノ宮と熊野深くで落合い再起を待つ。
 天皇護送の任を受け持つのは、高氏と公私ともに因縁のライバル、佐々木道誉。
 彼は後醍醐のカリスマ性に魅かれつつも、野心も内に秘めながら、とりあえず任務を果たす。この辺りから、高氏と道誉の関係も少し変わりつつあるようだ。大望を前に私怨を捨てるか? 道誉は、宮方、鎌倉方、二股かけてどっち付かずのイヤラシイ男だと思ってしまう。
 かわいそうに。やっぱりその影で泣きをみる女性がいる。藤夜叉という女性はこのふたりの男に翻弄され続けていた。

2009年4月21日火曜日

私本太平記(二)

 一方、楠木正成。どんな人物なのか?
 多分、後半で足利氏ともっとも対立するであろう人だと思うのだが、この時点では、温和な一地方の大名でしかない。天皇に権力を復帰させたいと願う、日野俊基の言葉も一蹴している。
 あと気になるのが、服部元成と卯木夫婦。宮内から駆け落ちしてきたふたりが、六波羅探題の追手から、右往左往と逃げながら楠木家を頼る。卯木は正成の妹だったのだ。しかし正成は、保身からあっさり卯木夫婦を追い出してしまう。この夫婦が、のちにどういう役割を果たすのか? この巻では分からない。
 そんななか、時は乱世の予感。正成にも出征せよとの勅使が…。

2009年4月10日金曜日

私本太平記(一)

 源平時代、戦国時代、幕末時代はたくさん小説も出ているのだけれど、この太平記が描く南北朝時代は、足利尊氏が室町幕府を開いたぐらいしか知識がないので、あえて挑戦してみることにした。…が、巷にあふれる戦国武将と違って、南北朝の武将は、名前は聞いたことがあるぐらいなので、導入部はちと読みづらい。それに、天皇家・源氏・北条家の血脈などを理解しないと、なかなか読み進められない箇所が多々あるようて…。巻末に系譜図があるにはあるけど。
 そんななか、足利高氏(尊氏)の人となりがおもしろい。なにがおもしろいって、ダメダメなのだ。ノッケから女がらみでひどい目にあう始末。
 しかし、先々代の遺書によって高氏の運命が大きくうねりを変えてゆく。

2009年3月24日火曜日

太公望










 カミサンに聞いたら「釣りのうまい人」と答えが返って来た太公望。
 たしかに、オイラもそのくらいのイメージしかなかったが、宮城谷昌光さんの太公望を読んでいるとイメージがガラッと変わった。個人的には「もののけ姫」の主人公“アシタカ”にダブる、精悍さがみなぎっている。
  ただ、彼の人格を支えているのは“復讐”の二文字だ。しかし、ただの仇討ちではない。人 対 人ではなくて、人 対 組織(太公望 対商(殷)王朝)である点だ。商王を個人を暗殺するという考え方もあったろうに、彼のものすごいところは、王朝を形づくっている概念、“上帝=神”という 考え方や、それに対する生贄や奴隷制度などが父を殺したとし、それを覆して、人が人として生きていける世界をつくることで“復讐”しようとしたことだ。彼 は長生きだったようだけれど、その半生を“復讐”に費やした。その器量の大きさといったら涙が出てくる。
 さて、太公望伝説とは、隠棲していた太公望が、針がついていない釣り竿で大鯉をつり上げ、その腹に兵法書があったという。それからのちに、周の文王に見いだされたということだ。
 周の軍師になったのは本当らしい。そこから、東海(現・中国中東部)の一地方をいただいて“斉”の邦を建てた。ちなみに斉とは“平等”という意味。

2009年2月9日月曜日

新・水滸伝(三)(四)

 本当に途中で終わってしまった。この作品が吉川英治、絶筆の作品なのだそうだ。
 それでも百八人が梁山泊に集い、これからの展開が楽しみなところだったので、どうしようかと思っている。
 この続きをしっかり読むには、北方謙三版に挑まねばならない。しかぁし!途中から挑んだとしても全十九巻! その続き「楊令伝」を執筆中で、これまた現在八巻(完結十五巻予定)という大長編だ。…気が遠くなる。
 とりあえず、ここで区切りにしておこう。

2009年1月20日火曜日

新・水滸伝(一)(二)

 全四巻。今、三巻少しまで読む。
 水滸伝といえば、山東・梁山泊に集う百八星の漢たちの物語だ。オイラはゲームでやった“幻想水滸伝”のイメージが強い。特にその続編の2作目のストーリーに泣かされ、オイラの中ではRPGストーリー最高峰の作品となっている。
 今回、原案となった物語を少しでも知っておこうと手に取ったわけだ。
  著者が吉川英治ということで、三国志とかぶるが、切った張ったの任侠小説の趣きが強い。天魁星である宋江は、性格などは劉備に似てなくもない。情けないと ころもあり、リーダーというより、108人のパイプ役のような人だ。中国ではこういう人を“人徳のある人”というのだろうか!?