2009年6月1日月曜日

私本太平記(六)

 後醍醐天皇の治世で平安を取り戻したかに見えた建武年間。しかし大塔ノ宮は「次代の北条」と足利を擬視していた。いよいよい大塔ノ宮方と足利の対立が激 化するなか、尊氏の謀略によって、あっけなく宮は足利尊氏の弟・直義のいる鎌倉に流されてしまう。そんななか、北条残党が各地で蜂起。特に諏訪氏が中心と なって北条高時の遺児、時行を奉じた信濃勢が鎌倉に攻め込み、直義は窮地に追い込まれる。そして鎌倉混乱のなか、直義は大塔ノ宮を謀殺してしまう。弟の窮 地を助けるべく、朝廷の命を無視して尊氏が起ち、なんなく北条残党は掃討してしまうのだが…。
 ここらへんで、足利兄弟の確執が描かれている。弟・直義は直謀的なのに対して、尊氏はあくまで遠謀をめぐらし、ここでも大望に対する考え方の違いで大げんかしているが、実際はどんなものだったのだろうか?
 とにかく、弟が勝手にいろいろやってくれたおかげで、足利勢は晴れて(?)朝敵となってしまうが、ここでも尊氏の遠謀で、足利の敵が朝廷ではなく、新田義貞になるように矛先を変えるよう画策し、義貞はまんまとそれに乗る状態で、皇軍の総大将となって鎌倉に迫る。
  それにしても尊氏って、いつの間にこんなに遠謀家になったのだろうか? 若いころから何を考えているのか、いま考えてみれば不気味だ。余談だが足利市には “足利学校”なるものがあった。尊氏がそこで学んだとは史実にはないけれど、もしかすると、ここで儒教の学んだかも知れんね。
 弟の罪も被って蟄 居していた尊氏だが、新田勢の猛攻に矛盾を感じつつも起ち、新田勢を挟撃し勝利すると、勢いに乗って上洛。一瞬にして京を落とす。宮方は比叡山に逃げる が、檄を飛ばしていた奥州軍が北畠顕家を大将として、疾風のごとく駆けつけ、またも形勢は逆転。尊氏は大義名分を求めて持明院党(北朝)の院宣を求めたが 行方知れず、足利勢は糧道を確保できず、新田・北畠・楠木ほか連合軍に京を追い出され、播磨(現兵庫県)、果ては筑紫(現福岡県)へと空しく落ちていく。 しかし尊氏だけは、そんな風でもない。
 とにかくこの当時、足利、新田を中心とする宮方の形勢が、目まぐるしく逆転していく。それに足利側が西国へ落ちていくクダリは、不勉強で今までとんと知らなかった。
 さぁ、ここから捲土重来。尊氏たちは、どうやって京へ戻り得るのか…。