2009年6月19日金曜日

私本太平記(八)

 楠木勢は官軍の盾となって壮絶な最期をとげる。
 最期の最期まで、正成の慈愛に満ちた行動は胸に迫る。
 結局、彼が後醍醐に諫奏した通り、宮方は比叡山に落ちのびることになる。今ごろ逃げても状態が好転するわけもなく、ずるずると戦争は長引くばかり。足利方も焦った。名目上は和睦という形で後醍醐天皇の還幸を促す。
  後醍醐天皇はいったんは降ったが、やっぱりこの人は、大人しくなるような人じゃない。どうしても自分で国の経営をしたのかったのだろうね。奈良吉野に逃げ てしまった。ここに至って南朝を開いてしまったわけだ。ここからだ。南北朝時代ってのが始まるのは。この朝廷分裂、50年も続いたらしい。なんか煮え切ら ない混沌とした時代。一方の室町幕府が、善政したかといえば、そうでもない。けっこう好き勝手やってたようでひどいものだ。
 尊氏と後醍醐天皇。ふたりが組んでいれば、もしかするといい国づくりが出来ていたのかもしれない。それをさせようとしていたのは、亡き楠木正成だった。
 どうも作者は、正成の死後にあまり興味がなかったのか、ここから尊氏が死ぬまでを、この巻で終わらせてしまっている。例の皇国史観やらがジャマをしているのか、はたまた、この時代のあまりな惨状に嫌気が差したのか…。
  とにかく、この後の尊氏の周辺は、目を覆うばかりの惨劇が続く。この50年で戦国時代を凌ぐ下克上の嵐! カオスですよカオス! 裏切り裏切られ、昨日の 友は今日の敵。今日の敵は明日の友…。とどのつまりは、弟の直義をさえ手にかけてしまった…。どうしちゃったのさ!尊氏さん! 権力とはそこまで人を狂わす のか!?
 北条高時、大塔ノ宮、楠木正成、新田義貞、後醍醐天皇、北畠顕家、高ノ師直、そして弟の直義。彼らが尊氏に憑いたとしか思えない。そんな尊氏にも最後が。危篤の床でうめいた「河内殿!」。三途の手前で正成と語らったのか…。
 思えば北条の世を憂いて起った尊氏だったが、権力の魔物に取り憑かれ、最期はグダグダ。悲しき英雄譚であった。

2009年6月11日木曜日

私本太平記(七)

 楠木正成は、天皇に直々の諫奏を行う。「足利を敵にまわさず、和睦するが上策」と。しかし聞き入れられず、田舎へ謹慎させられる。そこへ尊氏第一の忠臣・一色右馬介がやってくる。彼の目的は正成との共同戦線だった。尊氏と正成は一度だけ対面しているが、そこで物別れに終わっていた。尊氏は正成を高く評価していて、なんとか仲間に引き入れたかったようだが、その愚直なまでの真っすぐさとすきのない返答にあきらめざるを得ない。正成の人物像は、平民や、昔はともかく今の世に評価が高いだろう。領民を思い、後醍醐天皇に対する忠義を初志貫徹した。この“初一念”、真田太平記を思い出した。犬伏の陣で、兄は徳川方に、父と弟は豊臣方に物別れするクダリだ。この時代でも寝返りは当たり前。“利”を求めず、正成も“義”に生きていた。
 一方尊氏。九州に逃げ延びたが、そこも窮地に追い込まれている形勢だ。しかし、太宰府は敵に落とされ、自軍の10倍の敵をまわしながら、電光石火で戦いを挑み奇跡的に勝つ。実は、ここでも尊氏のしたたかな政略が盛り込まれていた。尊氏は人心をつかむのがうまかった。九州滞在も一ヶ月足らず。後顧の憂いを断ちつつ、すかさず東上を開始する。
 有頂天ではなかったであろう新田義貞。しかし、勾当の内待という美女にうつつをぬかしていた、なんて話が有名のようだが、決してそうではなかったようだ。尊氏と比べて政治家ではなかったということ。戦略に長けた義貞。しかし尊氏は政治家だったのだ。民衆の心をつかみ、戦いの流れを優位に持っていった。
 はたして、決戦は兵庫沖に開戦する。

2009年6月1日月曜日

私本太平記(六)

 後醍醐天皇の治世で平安を取り戻したかに見えた建武年間。しかし大塔ノ宮は「次代の北条」と足利を擬視していた。いよいよい大塔ノ宮方と足利の対立が激 化するなか、尊氏の謀略によって、あっけなく宮は足利尊氏の弟・直義のいる鎌倉に流されてしまう。そんななか、北条残党が各地で蜂起。特に諏訪氏が中心と なって北条高時の遺児、時行を奉じた信濃勢が鎌倉に攻め込み、直義は窮地に追い込まれる。そして鎌倉混乱のなか、直義は大塔ノ宮を謀殺してしまう。弟の窮 地を助けるべく、朝廷の命を無視して尊氏が起ち、なんなく北条残党は掃討してしまうのだが…。
 ここらへんで、足利兄弟の確執が描かれている。弟・直義は直謀的なのに対して、尊氏はあくまで遠謀をめぐらし、ここでも大望に対する考え方の違いで大げんかしているが、実際はどんなものだったのだろうか?
 とにかく、弟が勝手にいろいろやってくれたおかげで、足利勢は晴れて(?)朝敵となってしまうが、ここでも尊氏の遠謀で、足利の敵が朝廷ではなく、新田義貞になるように矛先を変えるよう画策し、義貞はまんまとそれに乗る状態で、皇軍の総大将となって鎌倉に迫る。
  それにしても尊氏って、いつの間にこんなに遠謀家になったのだろうか? 若いころから何を考えているのか、いま考えてみれば不気味だ。余談だが足利市には “足利学校”なるものがあった。尊氏がそこで学んだとは史実にはないけれど、もしかすると、ここで儒教の学んだかも知れんね。
 弟の罪も被って蟄 居していた尊氏だが、新田勢の猛攻に矛盾を感じつつも起ち、新田勢を挟撃し勝利すると、勢いに乗って上洛。一瞬にして京を落とす。宮方は比叡山に逃げる が、檄を飛ばしていた奥州軍が北畠顕家を大将として、疾風のごとく駆けつけ、またも形勢は逆転。尊氏は大義名分を求めて持明院党(北朝)の院宣を求めたが 行方知れず、足利勢は糧道を確保できず、新田・北畠・楠木ほか連合軍に京を追い出され、播磨(現兵庫県)、果ては筑紫(現福岡県)へと空しく落ちていく。 しかし尊氏だけは、そんな風でもない。
 とにかくこの当時、足利、新田を中心とする宮方の形勢が、目まぐるしく逆転していく。それに足利側が西国へ落ちていくクダリは、不勉強で今までとんと知らなかった。
 さぁ、ここから捲土重来。尊氏たちは、どうやって京へ戻り得るのか…。