2009年9月27日日曜日

宮本武蔵(二)

 武蔵が次に向かったのは柳生の庄。“柳生新陰流”開祖・柳生宗厳は隠居して石舟斎と号し、五男の宗矩が徳川幕府に召し抱えられていた。
 なんとか石舟斎に近づこうと考えていると、ひょんなことから石舟斎が切った白芍薬の切り口を見、その人とは知らず、その尋常ならざる切り口が誰であるか知りたいと小柳生城に手紙を城太郎に託し、その手紙の内容が目にとまり、柳生四高弟に会うこととなる。
 それでも足りない武蔵は、城太郎の不始末にかこつけて、石舟斎に近づこうとするが、そこにはなんとお通がいた。
 お通は武蔵を追って旅をし、笛で生計を立てていた。その笛が縁で石舟斎の身の回りの世話などをしていたのだった。武蔵はお通に後ろめたい気持ちでいた。剣の道には女は邪魔だと、置いて逃げるようにしてきたお通だが、会いたい気持ちもあったのだ。
 結局、信念が揺らぐのを恐れて、武蔵はその場から城太郎もおいて逃げてしまった。

 一方、又八。お甲たちとの泥沼な生活を脱して武蔵と対等になるよう身を立てようと、石工をしていたが鬱勃とした日々を送っていた。そんなある日、一人の牢人(浪人)者と出会う。不幸な事件で牢人は死んでしまい、又八はその荷物を縁者に届けようと考える。手がかりは中にあった中条流の免許皆伝の目録。そこには名前を“佐々木小次郎”と書いてある。
 そのうち探すのもめんどうになった又八は、佐々木小次郎の名をかたって、仕官しようとたくらむが、逆にだまされてしまい、逃げていたところを偶然にもお杉婆たちと出くわす。親不孝を反省した又八は、ともに武蔵とお通の仇討ちについてゆくことに。

 吉岡道場の現当主・清十郎たちの浪費で傾いた財政を立て直すため、方々へ声をかけて帰ってきたのは祇園藤次。あまりかんばしくない結果を引っさげて帰る途中、小猿を連れた前髪を残した美少年と喧嘩沙汰となり、背に大きな長刀“物干竿”で髷を落とされてしまう。
 それを知った仲間たちが人数にモノを言わして追い打ちするが、逆に切り返される。追い打ちをかける美少年は清十郎と出会い、清十郎はその容姿から以前に伊藤一刀斎から聞かされていた“岸柳佐々木小次郎”その人だとわかる。兄弟子・伊藤一刀斎と懇意であると知ると、小次郎も一気に打ち解けるのだった。
 又八が出会ったのは小次郎の兄弟子で、印可目録は子細あって兄弟子が、小次郎へ渡す旅の途中だったのだ。
 さて、そのころ武蔵は、宍戸梅軒と仕合うべく伊勢の途路である。
*   *   *
 剣の道という硬派に生きる武蔵も、お通への揺らぐ思いをうちに秘めていた。そんな気持ちでは到底石舟斎と仕合うつもりにもなれなかったのか。
 又八・お杉婆・お甲・朱実・吉岡清十郎はじめ吉岡一門。そして佐々木小次郎。この人々が不思議な糸で繋がりつつある。

2009年9月22日火曜日

宮本武蔵(一)

 …というわけで、誰もが知ってる作品なので今更解説もないが、自分の覚書として書き残すことも、このブログの主旨のひとつなので、どうかその辺はよろしくひとつ…。

 ときは関ヶ原戦後、武蔵と又八は九死に一生を得て、とある民家に転がり込む。そこは、若い後家・お甲とその娘・朱美が住んでいた。傷を癒し、故郷へ帰ろうかとも思う矢先、野武士に襲われる。お甲の死んだ亭主はこいつらの頭領だったが、野武士の間にも下克上があるのか殺されてしまっていた。裕福な暮らしに慣れていたお甲は、娘に関ヶ原の死体を追い剥ぎさせていたのだ。ためこんだ品物が狙われ、それを逆に武蔵たちが返り討ちにしてしまう。次の日武蔵が起きると母娘と又八の姿がなくなっていた。

 武蔵は一年ぶりで宮本村に帰る。村には姉がいるし、又八の許嫁・お通と母・お杉がいて、又八の安否を知らせるためでもあった。しかしお杉婆は、又八をそそのかして関ヶ原へ連れて行った武蔵を、深く恨んでいた。そこへ姫路の西軍残党狩りが入り、武蔵はランボーのように山に潜り抗う。そこへ現れたのが宗彭沢庵だ。
 沢庵に生け捕られた武蔵だったが、又八に裏切られた失意のお通によって助けられる。お通は一連の事件で、強く武蔵に惹かれるようになっていた。

 沢庵によって姫路城の蔵にこもり、兵書などを読み漁ること三年。剣に生きることを決める。京都を中心に武者修行をすることさらに二年。後の因縁となる吉岡の門を叩く。しかし騙し討ちをかけられ、若頭領である清十郎と果たし合うことを得ずに、そこを後にする。

 宿泊していた木賃宿で、ひょんな因縁から城太郎という少年を弟子として、連れて行くことに。

 次に向かうは、奈良宝蔵院。そこの高弟を打ち負かした武蔵だが、二代目胤舜は留守だという、老僧は胤舜の師匠であった。この人に精神的敗北を感じ、試合には勝ったのに、しっくりいかない武蔵…。
*   *   *
 沢庵によって精神的に開眼した武蔵。それまで蛮勇で、剣も強かったみたいだ。ちょっとやそっとでは負けない。宝蔵院の老僧によって、さらに精神的に成長する兆しを見せるのか!?

2009年9月17日木曜日

宮本武蔵(〇)

 先日、NHKの「プロフェッショナル」という番組に井上雄彦さんが取材されていた。残念ながら最後の30分ぐらいしか見ることができなかったが、「バガボンド」が終盤を迎えているらしかった。TVでみる彼は初めてだったけれど、昔、スラムダンクがヒットしている頃見た彼の印象とは大分に違い、頬が痩けて憔悴しきっているように見えた。(なんか雰囲気がノリタカに似てるな!?)
 途中からペンを筆にして描いているということだし、作品に対する意気込みというか、挑戦というかが感じられる。
 オイラは、そんな「バガボンド」をラーメン屋に置いてあるのを数冊読んだぐらいで、そのあと読んでいない。

 …だから、というわけではないけれど、その数日前、古本屋で程度のいい宮本武蔵の吉川文庫を見つけた。安く売っていたので、全巻買いそろえてしまった。一巻を開くと「はしがき」とある。今まで吉川文庫を何冊か読んできて、はじめての前置きだったので少々驚いた。そこには、作者自身、読者の激賞の声がたくさん寄せられうれしい反面、作品が独り歩きし戸惑っている…、というより恐怖している、ということ。読んだ人、ひとりひとりの“武蔵像”を描いていただければ、といことが書かれてあった。
 自分で自分を恐怖させた作品。書き終えたとき、かなり痩せていたということが、最終巻の裏表紙に書かれている。
 そして、今もなお、読んだ多くの人びとに、多大な影響をおよぼし続ける吉川版“宮本武蔵”。

 何がみんなをそこまで惹きつけるのか、しっかり読み進めていきたいと思います。
 メタボだし少しは減量になるだろうか!?
 ……バカなこと言ってスイマセンm(_ _)m

2009年9月16日水曜日

赤ひげ診療譚

 長野のおじいさん(故人)の家は、いま、おばさんが住んでいる。お盆のお墓参りに本棚を漁っていると、山本周五郎がたくさんあり、そのななかから拝借したのがこの本。

 保本登は、長崎へ蘭学を三年間遊学し、“わけあって”小石川養生所に赴任させられる。その“わけあり”のこともあって、最初は赤ひげたちと衝突するが、ある事件をきっかけに心を氷解していく。

 江戸の底辺の人びとの暮らしを細かく活写しており、登の視点がそのまま自分の視点となって、文章がとてもよく“見える”。
 今放映されている医療ドラマや、新しい医療小説も、元を辿ればこの本に通じるのだろうか。倫理観は今も昔も変わってはいない。言うまでもなく医療小説の古典であろう。
 新出去定(赤ひげ)が「…誰が悪いのでもない、人間は美しくもあるが、汚く卑しくもある」「…貧困と無知を改善しない限り病気はなくならないだろう」「…おれたちは患者の生命力の手助けをするだけだ」という言葉などに、深い葛藤とそれまでの苦闘がうかがいしれる。

「赤ひげ」といえば、黒澤明監督の映画を思い浮かべるだろうけれど、恥ずかしいことに、まだ映画を観たことがない。
 これは観なければいかん、と、猛省させられた。

2009年9月9日水曜日

その男(三)

 虎之助は、養父・茂兵衛の仇の情報を得ようと、自然、伊庭八郎や見廻組のいる幕府方に近づきつつあった。もう一歩で、その泥沼に身を沈めるところを、もうひとりの養父・山口金五郎が呼び戻すかのように臨終の手紙が届く。叔父・金五郎を弔うため、またも後ろ髪をひかれつつ京を後にする虎之助。

 一方、伊庭八郎。幕府について蛤御門の戦から鳥羽・伏見へ。そして箱根で激戦を繰り広げ片腕を切り落とす。その後、江戸に潜伏。榎本武揚を追って船に乗りこむも、嵐に遭い難破。横浜にてまたも潜伏。機をみて函館へ。到着した頃には、病もひどくなり、彼の命は風前の灯だ。五稜郭降伏の五日前に、流れ弾に当たり討死した。
 虎之助があのまま京に残っていれば、八郎と運命をともにしただろう。八郎の足跡を聞いたとき、虎之助は男泣きに泣いたという。

 虎之助は江戸へ戻ると、金五郎の妻・お浜を義母として山口家を継ぐ。そんなある日、昔住んでいた礼子との思い出の家で、非道な官軍に手込めにされそうな女たち救う。そのなかにいた年増女のお歌は、昔馴染みの妓楼の女だった。これもなにかの縁だろうか、虎之助はお歌を妻に迎える。
 幕府の家来ではあるので、息をひそめ暮らす日々が続くが、東京新政府が「幕府の“罪”をゆるす」という勅令を公布し、大手を振って往来を歩けるようになる。
 虎之助は何を思ったか、横浜で偶然見かけた洋風床屋を見てピンと来た。ここに住み込んで修業し“開化散髪処”という床屋を開業した。そこに現れたのが偶然にも、桐野利秋…出世し、洋装軍服も華やかな中村半次郎そのひとだった。
 奇妙な巡り合わせからまた親交がはじまり、桐野利秋は虎之助の床屋へ通うようになった。

 ときは明治も数年たち、政府は外交に注力しはじめたころ。その留守をあずかるのは西郷隆盛。幕府を倒すためいったんは協力しあった諸藩たが、西郷隆盛の朝鮮への外交政策に端を発し、岩倉具視などとウマが合わず、失脚させられ政治から身を引き鹿児島に隠棲することに。薩摩士族は彼を慕って、ほとんどが彼についてゆく。もちろん桐野利秋もだ。

 桐野が去った床屋に、桐野となじみの薩摩人がやってくる。その男との会話のなかで、恩師・池本茂兵衛を殺害したのは桐野だったことが分かる。真実を確かめるため、虎之助は単身鹿児島へ。
…真実であった。果たし合いを申し込む虎之助。しかし桐野は「江戸人は昔のこつ、根に持つんか!」と一喝。虎之助はもう桐野を仇として見ることはできなかった。それほどに男惚れしていたのだ。
 東京には帰らず桐野とともに、田畑を拓く手伝いをする虎之助。そんなある日、西郷隆盛がやってくる。彼とはこれが初対面だったが、たちまちその男振りと愛嬌に惚れ込んでしまう。
 西郷は帰郷して、私学校を設立したり、若者を育てることに力を注いでいた。そんな彼と東京にいる大久保利通。旧知の仲だった彼らは、ますます埋まらない溝ができてゆく。
 奇しくも、西郷が育てた若者たちが煽動するかたちで、西南の役が勃発。そのころにはすでに西郷隆盛は、諦めの境地に達していたようだ。「…これも天でごわす」。
 これが日本人同士の最後の戦いとなった。これを虎之助は見届けるのだった。
*   *   *
 それにしても、明治維新前後の時代とはまさに“激動”の時代だったのだなぁと、感じずにはいられない。とくに、維新後の西南戦争のクダリがどのような流れで起こったのか、本書を読んではじめてわかった。
 その激動の時代を杉虎之助は、“負け組”の側に立って生き抜いた。父たち、妻たち、親友たちを看とり、昭和十三年までの大往生だったという。激動を生き抜いた力強い男の物語だ。

2009年9月1日火曜日

その男(二)

 寺田屋騒動に絡みながらも、礼子を妻として京を後にした虎之助夫婦。江戸へもどった虎之助に、昔助けてやった女の情夫・中村半次郎が貸した金とともに現れる。虎之助は半次郎の快活な性格に魅かれる。池本茂兵衛の言いつけ守り、礼子との生活にひたりきる虎之助。フラグが起ってしまうぐらいの仲の良さだったが、やはりこの甘い生活は長くは続かなかった。
 ここらへんは分かっていても、女房を持つ身としては涙なしには読めず。

 その事実を、師匠・池本茂兵衛に直に告げるため再び京へ。
 師匠とのつなぎを待ちながらも、ひょんなことから半次郎を見かけ、その動向を不審に思った虎之助は、薩摩藩の動向を探りはじめる。出入りしている道具屋があやしい。この道具屋が新撰組に捕らえられ、かの池田屋事件につながっていくのだが…。
 そんななか半次郎が襲われる。たまたま虎之助はそれを目撃し、半次郎の鮮やかな手並みに、我を忘れ思わず声をかけてしまう。半次郎は薩摩の隠密であった。ひょんなことから半次郎の仲間に妻・礼子の仇を見いだした虎之助は、これを周到に呼び出し仇を討つ。が、その時とほぼ同じくして、奇しくも、育ての父・池本茂兵衛の死が近づいていた。
 師匠の死に水は取れたものの、どん底へたたき落とされる虎之助。茂兵衛は一刀のもとに切り上げられていた。「先生ほどの人が…」。このことであった。憤る虎之助は、新たな仇を探しはじめる。しかし、すぐに江戸の叔父・山口金五郎が半身不随の病にかかったという手紙が届く。先生の仇を一刻も早く探したいが、叔父も自分にとって“もうひとりの育ての親”だ。先生の骨も江戸の礼子のたもとに葬ってやろうと考え、後ろ髪をひかれつつも江戸へ戻る。
 この間に京では、池田屋事件から禁門の変へ激動を迎える。
 金五郎は復調、虎之助は京へ舞い戻る。伊庭八郎の紹介で京都見廻組に協力を仰ぎながらも、師匠の仇の情報もままならず、空しく三年の月日が流れ去る。