2010年12月30日木曜日

宮尾本 平家物語(玄武)

都落ちを決行した平家。
ひとまず、一時都となった福原へ。
そして、西国に味方を求める。
その一門でも、袂を別つ人々が。
頼盛は、母・宗子が頼朝を救ったことで、東国に囲われる。

一方、難なく入洛を果たした義仲。
はじめはよかったが、木曽育ちの粗野な振る舞いが目立つ。
法皇はじめ、公家方と溝が深まる。
とうとう敵対同士に。
法皇方は頼朝に泣きつく。
頼朝は、弟たちを京へ派遣。
範頼を大将、それを補佐する形で義経。
入洛前に兵を分け、主力範頼軍は大手・坂本方面から。
義経率いる搦手軍は、伊賀方面から寄せる。
主力がもたつく間に、義経軍は難なく入洛。
ビビった義仲は大した抵抗もなく落ちる。
これを鎌倉軍は素早く追討。
義仲は覚悟を決め反撃したが討たれてしまった。
義経をいたく気に入った法皇。
流れで平氏討伐の命を下す。

平氏は瀬戸内海を漂い太宰府まで。
西国の勢力をまとめたいが、なかなか集まらない。
それでも、徐々に勢力を盛り返す。
皮肉にも、法皇と木曽勢の争いに時間をもらった形だ。
そして、四国・屋島(現高松市)に仮の御所を建てる。
さらに、海を隔てた一ノ谷で軍備を整える。
天然の要害である一ノ谷。
ここで東国軍を迎え撃とうと考えた。

前は海、後ろは絶壁の一ノ谷。
義経は、あの有名な鵯越で後方から、まさかの攻撃。
結果、主力と挟撃する形となる。
油断していた平氏軍は散り散りに。
主だった平家の男たちが消えていく。

義経は得意満面で京へ帰洛。
法皇も大喜びだ。
こうなるとやっぱり出てくるのが、義経を快く思わぬ輩。
鎌倉の頼朝に、あることないことチクる。
怒った頼朝は、義経の鎮西大将を範頼にまかせる。
しかし、義経のようにはうまくいかない。
結果、平家の息を吹き替えさせる結果に。
結局、法皇が義経を派遣する形。

当の平氏軍は屋島に戻る。
そこを、またも義経が奇策を弄す。
まず熊野水軍を味方に引き入れる。
そして四国・屋島の反対側、阿波国・勝浦に上陸。
これまた、屋島を海と陸とで挟撃。
しかし、少数だった義経軍は苦戦を強いられる。
休戦となり、平氏が挑発して女乗りの舟の先に扇を立てて挑発。
これを那須与一が受け、見事に射た。
…というのは有名な話。
結局、平氏は義経にまたも追い落とされる。

そして、壇ノ浦へ。
孤立した平氏は彦島に。
しかし、水上の戦いに慣れている。
対する源氏は、水上には慣れず苦戦を強いられる。
しかし、義経の調略により阿波重能が寝返る。
これにより、水軍の形勢が逆転。
とうとう、主だった平家の人々は入水してしまった。

意気揚々と都へ帰った義経。
京では大賛辞の嵐。
これで兄・頼朝もねぎらってくれるだろう。
そう信じて疑わなかった。
しかし鎌倉では、例の快く思わない輩たちが暗躍。
頼朝も、今回は命令違反して出征した義経に激怒していた。
そんなことは露知らず。
義経は意気軒昂と平氏の総大将・宗盛を伴って、いざ鎌倉へ。
しかし、義経はとうとう鎌倉へは入れず。
とうとう、義経は叛旗を翻す決意をする。

宗盛は宗盛で、最後まで命乞い。
いったんは京へ帰れると喜んだのも束の間。
なんの因果か、頼朝、義経の父・源義朝が討たれた地で首討たれる。

義経は京で寡兵。
しかし鎌倉の威勢と度重なる戦で、兵は集まらない。
そうこうしているうちに、鎌倉の威圧にとうとう法皇が義経討伐の院宣を降す。
義経は数年逃げ回り平泉へ。
そこで、平泉ともども最後を遂げることになる。

平氏の血は途絶えたのか。
さにあらず。
入水した安徳天皇と入れ替わっていたのは守貞親王。
入れ替わった守貞親王(安徳天皇)は平氏の血を皇統に残す。
これが二位尼時子の、最後の機転だったのだと…。
*  *  *
最後の安徳天皇と守貞親王が入れ替わったクダリは、本当かどうか分からない。
とにかく、宮尾本 平家物語は女性目線が多かったので、自分として取っ付きにくかった。…ので半分も理解できなかったかもしれない。女房たちの葛藤や、当時の女性の悲哀がとても、克明に描かれていたとは思う。
どうしても気になるのは、平時子が天叢雲剣を帯して本当に入水してしまったのかだ。熱田神宮にあるのが本物か否か。今では歴史のみぞ知るところ。

2010年12月13日月曜日

宮尾本 平家物語(朱雀)

ほとんど、なし崩しに福原へ都を移す。
清盛は何を思うのか。
しかし、多くの者がこの遷都に反対。
正室・時子が意を決して諌言する。
清盛は、空ろな目で外の海を見るだけだった。

そのころ文覚という僧が、伊豆の頼朝のもとに。
蜂起するように勧める。
頼朝渋る。
文覚、法皇の院宣をいただき速攻で帰ってくる。
これにより頼朝は決起。
いったんは蹴散らされ敗走。
しかし、頼朝蜂起を聞きつけた東国武士。
雲霞のごとく頼朝の元に集まりはじめる。
その数、数万。
とうとう、富士川を挟んで平家率いる西軍と対峙する。

大会戦の予感をはらみつつ、対峙は数日続いた。
平家方は軍紀が緩み、夜は飲めや歌えの騒ぎに。
双方、明朝、相見える約束を交わす。
その夜、水鳥が一気に騒ぎ飛びたった。
ビビる西軍。
戦わずして逃げる。

これを聞いた清盛は激怒。
逃げ帰った将軍・平維盛に処刑を言い渡す。
しかし、その後、どういうわけか出世させる。
自分と似た境遇の維盛に同情したものか…。

日和見の武家たちは、源氏のもとへ。
次々と平家に対して蜂起。
それは膝元近い古都奈良でも。
それを鎮圧するため焼き討ちの暴挙。
興福寺をはじめ、東大寺大仏殿までも焼き払う。

これがたたったかのか、清盛発病。
その苦しみようは、地獄でもがき苦しむようだ。
そして、わずか一週間ほどで亡くなってしまう。
時子、恨むは頼朝。
「わが墓前に、頼朝の首を供えよ」
と、遺言を操作する。
清盛相国入道入寂後、そうそうに源氏討伐へと動き出す平家。

一方、木曽義仲は、以仁王の乱のとき綸旨を受けていた。
義仲は、従兄弟で嫡流の頼朝に気を使いながらも、信濃で蜂起。
越後の城氏と、依田のあたりで相まみえる。
敵数万に対し、こちらは数千。
そこで奇略を用いる。
味方数千を七手にわけ山々へ。
赤旗(平家旗)を立てさせた。
敵が油断した隙に、七手が一手に集まり白旗(源氏旗)が立つ。
ビビる城氏は、敵が数万にも見えたとか。
それを難なく掃討。
この戦いが義仲は有名にする。

宗盛は、富士川で失敗している維盛をまた大将に。
名誉挽回の場を与えたものか。
平氏軍は北陸に発向。
追いつめ籠城する義仲軍。
ここで、またも奇策で谷へ追い落とされ。
維盛率いる平氏軍は、散々に敗れ敗走。

こうなると義仲軍の勢いは止まらない。
平氏は、いつ源氏軍が京へ流れ込んでくるかヒヤヒヤだ。
詮議の結果、主上と三種の神器を持って都落ちし、西へ逃げる決意をする。
*   *   *
平氏は、清盛が亡くなる前後から没落しはじめる。後白河法皇にうとまれていただけで、ひどい専横政治をしたわけじゃない。源氏との確執も、今で言えば自民党と民主党の確執のようなもので、どっちが善悪というわけではない。
でも歴史のイメージというものは、勝者が都合よく書き換える。
なんとなく源氏のほうにかたよりがちだったが、これを読んで、自分のなかで少しだけ平家への認識が改まってきたようだ。