巡洋艦「和泉」は、バルチック艦隊を追っている。信濃丸からの連絡で、対馬海峡へ現れるのは確実だ。
和泉は、敵の針路を、慎重に探った。
素晴らしい正確さだった。
旗艦「三笠」に無線が入る。
真之は、小躍りならぬ阿波踊り。
さっそく、東京・大本営へ上奏する電文を考える。
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
一般に美文とされるが、そうではないとは、著者。
その当時、高等技術である天気予報。
それを、ほぼそのまま流用した。
それに、敵を迎え撃つには絶好条件なのだった。
東郷艦隊、抜錨。
満を持して、対馬海峡へ。
「天佑」としか言いようがない。
この言葉が、真之の口癖になった。
彼はこの海戦で、神霊を強く信じるようになった。
バルチック艦隊は、沖ノ島近くに姿を現す。
その周りには、「和泉」はじめ日本の駆逐艦。
つかず離れず、まるで送り狼だ。
そこへ、遠く東郷艦隊が姿を現す。
天気晴朗とはいっても、モヤで見通しは悪い。
双方気がついたときには、肉眼で確かめられるぐらいに近づいていた。
バルチック艦隊というより、ロジェストウェンスキー。
北進して、あわよくばウラジオストックへ遁走しようと考えていた。
一方、東郷艦隊は一艦残らず沈めなければならない。
一艦でも逃せば、ウラジオストックから、満州への補給艦を襲われるからだ。
要するに、敵を北進させず、かつ撃沈するのが目的だ。
というわけで東郷さんはなんと、敵前でUターンを命令。
とてつもなく危険な賭けだ。
Uターン中、艦隊は動きが止まったも同然で、格好の標的となる。
もちろん、集中砲火を浴びた。
ここはじっとがまんだ。
この戦法が、真之の考えた「丁字戦法」だった。
つねに、敵旗艦「スワロフ」の頭を抑える戦法だ。
日本側は、この日のために独自の射撃法を編みだした。
砲火指揮系統を統一し、一斉射撃をさせたことだ。
それまでの海戦は、単艦で各々判断して、好き勝手に撃っていた。
Uターン行動にしろ、何にしろ、東郷艦隊はシンクロのようだ。
隊列は乱れず、砲撃も一斉射撃。
それも命中率は抜群!
開戦から30分で、ほとんど勝敗は決まってしまった。
真之は「丁字戦法」を皮切りに「七段構え」の戦法を考えていた。
しかし、その三段階で、この海戦は終息していった。
ひとつは、敵旗艦「スワロフ」の大破。
ひとつは、バルチック艦隊提督・ロジェストウェンスキーの拿捕。
あとひとつは、途中合流した、第三戦艦戦隊のネボガトフ少将が、戦わずして降伏したことだった。
四日後、海戦は終結した。
「三笠」は佐世保へ。
秋山兄弟の母・お貞はなくなっいてた。
真之号泣。好古は満州でこの報に触れた。
この時点で、兄ちゃんはまだ奉天で、コサック騎兵隊を迎撃をしている。
間もなくアメリカ大統領ルーズヴェルトの仲介に寄って、ポーツマスで講和条約が締結された。
日本連合艦隊解散の辞で、東郷さんは言う。
「勝って、兜の緒を締めよ」と。
しかし、増長した日本は40年後、太平洋戦争へ。
真之は、根岸・子規宅へ。
子規の母と妹を訪ねようとした。
長い間、外でたたずんでいたようだ。
家には入らず、墓のある大竜寺へと足を向ける。
寺に向かう坂は雨。
そう。坂の上は雨なのだった。
*
真之は、49歳で亡くなった。長命でなかった。晩年は、神霊を信じ、少し気が違ったようだ。
息子に僧になるように、強く勧めて死んでいった。
息子は約束を守る。
好古は、大将で退役し、松山の中学校の校長になった。
終生、福沢諭吉を尊敬した。
晩年、校長を辞め、東京に帰り、
「もう、あしのすることはした。逝ってもええんじゃ」
と言って、病床の人となった。
最後の言葉は「奉天へ…」。
* * *
とうとう、読み切った。長かった。難しかったぁ!三巻から、もうほとんど日露戦争なので、正直とてもつらかった。
いかに、日本の勝利が奇蹟だったか、読み終えてよく分かったが、同時に、その勝利が太平洋戦争の引き金になっていったと思う。
あんなに前途洋々だった明治初期から、日露戦争を経て、大正の飽和時代を迎え、昭和の大恐慌に向かい、太平洋戦争へ…。
…ん!? なんか今の時代って、大恐慌時代に似てない!?
前途洋々だった高度成長期、その後の飽和なバブル期、そしてこの不景気…。さすがに、日本は自ら戦争を起こすようなことはない…。
明治時代は、世界に真の「侍魂」を見せつけた時代だったんだな。